2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

4.13.2012

QC3|特2 座談会「都市とスラム」




4/5 座談会その2
5/5 座談会その3 はこちら
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<理想像と現実が齟齬を来しているのに誰もその理想像を引き下げない>


篠原
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デイヴィスの本を訳しながら思ったんですが、この人はアメリカ人でヨーロッパ的な志向の持ち主なんですね。つまり彼にはヨーロッパとアフリカ、アジアの生活のズレへの意識があまりないと思うんですよ。IMFや世銀の影響で市場原理の徹底化が敷かれた結果、ヨーロッパ的な生活様式に適合した人は生き残ったけど、適応できなかった人は死んでしまった、というグローバル主義的な視点があるのかなと思います。もともとデイヴィスはマルクス主義者ですからね。つまり彼は資本主義の問題としてスラムの形成を言っている。でも資本主義批判でこれを言えるのかという問題はありますね。アフリカやアジアの暮らしとヨーロッパのそれとのズレを考えたほうがいい。


日埜
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マルクスに「原始的蓄積」っていう言葉がありますね。社会にある程度の「原始的蓄積」が形成されないと発展の次のステップにはいけない。原始的蓄積がないままに人口増大したり、あるいは生活環境が変っていくと、その間には軋轢が生ずる。その無理のひとつの形がスラムなんだという言い方はできるのかなと思いますね。社会資本、宅地、住宅、水道、道路でも、都市の原始的蓄積の一部でしょう。それ自体は妥当かもしれないけど、それで切るだけでは見えないことはありますね。


篠原
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だからデイヴィスの場合、社会資本というか共有財を市場化した結果として水道がなくなっちゃったとか、共同生活の条件がどんどん民営化された結果皆で暮らす場所なくなっちゃったということでより一層のスラム化が起こっていると言うわけです。だから、ただ単に資本主義化に反対すればいいという話ではない。民営化されていった生活というものをどうつくりなおすのかという視点がないとどうにもならない話じゃないでしょうか。



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第三世界においては、生存のための空間としてそれほど危険なのかという判断がされないまま、「ここはインフォーマルだからスラムと呼ぶ」という領域がたくさんあります。近代的な目線だとそれはなおしていくという話になるんですが、それを実行する資金もないというのが現実です。だからそれを許容した都市を考えないと本当はうまく行かない。

そのとき資本主義の問題はすごく大事です。スラムというのは貧困と劣悪な居住の二つセットに考えるべきだと思うんです。例えば、AさんとBさんとで持っているお金の量が違うとする。そのときAさんは少しくらい不良住宅でもいいから居住のコストとしては安く済まして、他のところにお金をかけてBさんとは違うライフスタイルをとるという戦略を選ぶこともできる。資本主義が富の格差を生むとすれば、「不良住宅でも良しとする」という発想は生存のための戦略のひとつとして必ず出てくる。それを理解しなければ、近代都市計画的な観点から不良住宅の撤廃を掲げ、住宅をどんどん供給し続けたところで、貧困が残り続けている状態は改善されてないとすると、むしろ彼らにとって、生存戦略の幅が狭まることになる。そうるすと、デイヴィスが言うように暴動のような形になって不満が爆発する。スラムというのはある種の逃げ道でもあったと思うんですよ。逃げ道ではあるが、死の危険性も高いからそれをどうするかという問題が現れるわけです。でも、例えばいま飲んでるこの水が危ないかどうか、もう少し引いた目で判断しないと分からないわけです。


篠原
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こうも人が増えてしまっている状態で、何もインフォーマルなものがないって、あり得ますか?



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ないと思います。理想像と現実がどうみても齟齬を来している。けれども、誰もその理想像を引き下げないというか…


日埜
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「基本的人権」という概念、そもそもそれは何ぞやというとややこしくなりますが、近代国家はそれを保証するという前提があったわけじゃないですか。最低限の生活を営む権利を有する、と。でもそれと選択の自由はどちらが優越するのか。つまり、生存を犯しながら生活する自由もある。危ない運転する人っているわけですよね。


一同
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いや、多分ほとんど同じ次元の話だと思うんですよ。ある種の危険はどんな生活をしていてもある。常になんらかのリスクがあって、そのリスクは平等じゃないですよ。震災後明らかになった事のひとつは、沿岸部に住んでいる人はそうでない地域より高い津波のリスクに晒されている、ということです。にもかかわらず同等の安全を保障するために堤防をつくる。堤防の外側にはヒトは住まないということになる。一応近代的な国民国家の建前としては国民全員が一定水準の安全を享受できるということを約束しているわけだけど、そういうフィクションはともかく、一旦事が起きればそれは露呈する。

現実はリスクを内在させているし、そのなかで自由が行使されている。スラムにおいては何ごとも切迫してるから、その自由もリスクと切り結んで決まっている。だからそこに突出したカタチで都市の問題が見えてくることがあるのかなと思います。



<いい住のパッケージングはひとつではない>




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普段ジャカルタに行っていると、インフォーマルなところが多い。ジャカルタもこの10年間でフォーマル/インフォーマルをはっきりしましょう、インフォーマルに住んでいた人たちに土地の所有権を与えましょう、という話になっています。でもそれは見た目としては変わらないわけです。スラムというとき、大体は見た目で判断しています。一方でインフラや制度機能のレベルもある。善か悪かという判断をするときにその二重性がとても難しいと思います。



それから地球環境問題とつなげて考えると、地球環境問題の重要な概念として予防原則というものがあります。結局未来は予測不能なので、例えば温暖化がどこまで進むのか、CO2を出し続けるとどうなるのか、いろいろと研究していますが、100%確定はできない。しかし、国際社会の原則としては、温暖化の進行は予防するということで合意を取ろうとしている。スラムの問題もなるべく安全なところに住めることを人間の安全保障の原則としてとる。そのために、計画的な都市計画をすれば、危険性は予防されるでしょうということでやってきたはずなのですが、それが形骸化してきたわけです。ほんとは予防したいものがあって計画的な手法がでてきたはずが、計画的にすること自体が最重要課題になってしまっている。そして本来予防したかったことが、本当に予防できてきたのか、ということを誰も判断することができない。CO2なら減っているかどうか測ればいいんですけど、スラムの貧困や危険性は本当に排除されてきたかを測るのはできない。これがスラムの問題で、温暖化よりもずっとアプローチしづらい問題じゃないかなと思います。



日埜
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林さんにとってジャカルタの現実と日本の現実は全然別のものなんですか? 



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デイヴィスの本を読んで、ジャカルタに行くと、「それほどでもないんじゃない?」とは思いますね。それほど、日本との距離を感じるわけではないです。


日埜
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今はジャカルタ景気いいからね。



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そうなんですよね。一方日本のことを考えると、ここ100年とってきた方法は「健全な住宅を提供していく」という方向性です。でもそのために、住宅の質のグラデーションがなくなって、そこからはじかれちゃう人はホームレスになるかゼロ円ハウスかでその間がない。住宅が貧困に対処するための戦略的なツールではなくなってると思うんです。ジャカルタはその間のグラデーションがまだあるような気がするんですよね。


日埜
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例えば?



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自分でレンガをつくっちゃうとか。あるいは地縁とかを頼って街の人と一緒につくっちゃうとか。

日埜
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「ちょっと払うから手伝って」と。



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そうです。そこにインフラが整備されていないという問題はあるんですが、例えば地下水があるので水は出る。日本の場合はいまは上水道でまかなっていますから配管がなければ無理ですけど。本当にいい住環境のパッケージはひとつではなくて、いくつかバリエーションのとり方があるような気がしています。水、大気、建材、建て方、などの組み合わせをもう少し自由に考えられる基盤がまだジャカルタにあるんじゃないかなと思います。


日埜
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ある種健全に貧しくなれると。


5/5につづく



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プロフィール


日埜直彦:1971年生まれ。建築家。日埜建築設計事務所主宰。都市に関する国際巡回展Struggling Cities展企画。現在世界巡回中。


篠原雅武:1975年生。社会哲学、思想史専攻。2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。京都大学博士(人間・環境学)。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科特任准教授。著書に、『公共空間の政治理論』(人文書院、2007年)『空間のために』(以文社、2011年)。共訳書に、M・デイヴィス『スラムの惑星:都市貧困のグローバル化』(明石書店、2010年)ほか。


林憲吾:QueryCruise3「タウンとアーキテクト」vol.08参照

島田陽:1972年兵庫県生まれ。建築家。1999年タトアーキテクツ/島田陽建築設計事務所設立