2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

4.14.2012

QC3|特2 座談会「都市とスラム」




3/5 座談会その1
4/5 座談会その2はこちら1/5 キーノートその1はこちら
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<「スラム」という言葉をどのレベルで取るか>



篠原雅武(以下:篠原)
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この前ある雑誌を見ていたんですけど、多摩ニュータウンの人口が減って空き室が増えてるという話が普通に「スラム」という言葉で語られていたので「こういう感じでいわれるようにもなったんだ」と思ったんです。労働力人口が集中して貧困が増えるというパターンのスラムとは違うニュアンスで使われている。この違いってなんなんだろうなと思ってしばらく考えていたんですよね。


日埜直彦(以下:日埜)
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車が運転できないと買い物にもいけない、という話は普通にありますね。高齢化して車の運転もおぼつかなくなると生活すること自体が困難になる、というような。そこでの生活の暗黙の前提が壊れ、生活インフラが喪失しているなら、やはり類似性のある課題ではあると思います。


島田陽(以下:島田)
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限界集落にも近いものがありますね。


日埜
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かもしれないですね。「スラム」というのは狭い意味でも広い意味でも取れると思うんですが、狭い意味にとるとどこか向こうの世界の話になる。一方で少し広げて考えると自分たちとは無縁の問題とはどうしても思えない。我々としては広く受け止めた上でどう考えていくか、ということでしょう。


篠原
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より住み易い状況にしていく必要がある場所であると考えると、それはここで言われているようなスラムもそうかもしれないし、多摩ニュータウンでも然りだと。


日埜
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多摩ニュータウンの場合は入居するときに同じ年齢層の人ばかりだったから、高齢化して子どもがいなくなるとさーっと歯抜けみたいになるわけですね。仮にそれがまんべんなくバランスの取れた年齢層で入居していたら、サスティナブルなコミュニティが可能だったかもしれない。高度成長期はそういう時代ではなかったとは思いますが。


篠原
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それがうまく行っていないっていうことか。


日埜
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東京はインフラ投資で負荷の増大をカバーしたわけですが、人口の急激な増加や減少というのは莫大なコストを強いるもので、言ってしまえば無駄ですよ。ピークにあわせて過剰にストックを積みあげなければならず、人口が減少していく過程では借金払わないといけない。そのコストが突きつけられているということでしょう


篠原
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むしろ第三世界の側ではそれを反面教師にしないといけないっていう話かもしれないですよね。


榊原(RAD)
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スラムというと、釜ヶ崎やウトロのような「ドヤ街」的イメージがありますね。


日埜
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釜ヶ崎でもウトロでも極めて近代的な構造のなかで生まれたスラムで、それが今も名残を残しているわけでしょうね。それはスラムそのものじゃないかもしれないけど、じっさい関係はある。でもスラムはもしかしたら目に見えなくなっているだけで身の回りにあるのかもしれない。例えばシェアハウスみたいな賃貸の形態はいま珍しくないですが、法律上は結構怪しく、誰がそのリスクをとってるのかよくわからない。派遣労働などもフォーマルな職業に対して言えば相対的にインフォーマル化しているわけです。健康保険とか、高齢者介護の問題とか。「未来のスラム」特集のなかで大月先生が書かれていることだけど、こうした問題が不可視化しているんです。

それは貧困の問題なのかスラムの問題なのか線引きはしづらいんだけど、でも無視できるような問題ではない。都市の問題というよりも社会の問題まで下がって見ると、いろいろな課題は見えているし、むしろそこに即した物的な環境を我々が見過ごしているだけかもしれない。


島田
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日埜さんはスラムは駆逐されなくてはならない、という立場なんですか?


日埜
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そうじゃないですね。スラムは究極的には保健衛生的に良くない環境のことだけれど、結局のところどのみち都市で人は死ぬ、と思っています。その意味で都市は常にスラム的なものをはらむ。そうしたいわば陰の部分を直視できない虚弱な都市観があるんでしょう。それがスラムに対する嫌悪の根っこだと思うんです。世界に70億人いて人間すべてが都市のなかで健康に生活できる、という理想的な世界が信じられるほどにナイーブにはなれない。だけれども、より良くするために可能なことはあるはずです。


篠原
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無理やりスラムを潰した結果インフォーマルな場所がどんどんなくなっていくと、より死に易くなるということはあるかもしれないですよね。


日埜
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スラムについて「かわいそう」というような感覚は一般にあると思うけど、どうもそれだけだとどうかと思うんですね。「我々のような生活を送れるようになることが良いんだ」という考え方はかなり間違っていると思います。何よりも、ターナー的な意味で、彼らはある種自分で決めているんですよ。選べない選択肢があるのは事実だとしても、そこはラディカルな意味でちゃんと見ておきたい。意外とネット使ってるし、テレビ持ってるし、それ自体がある種の貧困の反映でもあるけど、でも変な先入観は的外れだと思います。

※ここで内原恭彦さんによる東南アジアにおけるスラムの写真が参考に出されました。cf)http://uchiharayasuhiko.tumblr.com/


島田
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ゼロ円ハウスみたいな話ですよね。


林憲吾(以下:林)
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僕は死の危険はない方がいいというのが前提にあります。ただ、その危険性を排除するために一律的な手法を全世界に当てはめていくと、逆説的にもっと死に易くなる環境が出て来る可能性があると思ったりもします。たとえば衛生面では死ににくくなったけど、経済的な貧困が加速し、餓死が増えているかもしれない。つまり、これまで是だと思われていた手法が限界に来ているということに直面していると思うんです。


篠原
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19世紀型のスラムのクリアランスってクリアランスだったんですかね。つまり、オースマンの例はどうなのかなと思ったのですが?


日埜
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オースマンのはどちらかというとデベロップメントです。つまり道を広げてその両側に綺麗な建物を立て替えることで環境が改善しそこに利潤が生まれる。実はこれはスラムの問題とかなり関係があります。スラムの問題はイギリスではじまったという話をしました。そのときに中産階級の新興紳士たちが郊外に住宅を持つということが流行ります。「我々は清く正しい人間だ」というピューリタン的なメンタリティから都心の世俗を離れ一種のコミューンを郊外につくり始めるんですね。それが郊外住宅地の最初です。それがすごく革新的なことだと思われてパリに伝わるんですが、パリの人たちはそれを受け入れられなかったらしい。彼らはオースマン型の都市内部の改善、都市を再改造することでよりよい都市環境をつくろうとしたわけです。

『建築家なしの建築』を書いたルドフスキーの60年代の仕事に『人間のための街路』という本があって、そのなかで緑豊かな庭を持った戸建ての住宅にあこがれるイギリスやアメリカのアングロサクソン系の都市計画とフランスあるいはオーストリアのオースマン型大陸系の都市計画は違う、という指摘があります。そういう文脈が繫がっていて、オースマンの手法はスラム問題への別の対応のあり方であったことは確かです。

その伝でうんと雑にいうと、英米系と大陸系とで違うんだったら、アジア系はもっと違うと思うんですよ。例えば班田収受の法。国がすべての土地を持っているということですね。もともと東アジア系は土地所有についてある意味で抽象的で、王様が持っていてそれを使用する権利だけが民衆に相続されていく。ルドフスキーの本と前後して『日本の都市空間』という本があります。日本のバナキュラーな都市空間のなかに、近代の都市計画からは出てこないような都市空間のクオリティがあるんじゃないか、というわけです。いずれにしても東アジアの問題として土地と人間のつながりについて、ヨーロッパとは違う根っこがあるんじゃないかと思っています。


4/5 座談会その2 につづく



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プロフィール


日埜直彦:1971年生まれ。建築家。日埜建築設計事務所主宰。都市に関する国際巡回展Struggling Cities展企画。現在世界巡回中。


篠原雅武:1975年生。社会哲学、思想史専攻。2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。京都大学博士(人間・環境学)。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科特任准教授。著書に、『公共空間の政治理論』(人文書院、2007年)『空間のために』(以文社、2011年)。共訳書に、M・デイヴィス『スラムの惑星:都市貧困のグローバル化』(明石書店、2010年)ほか。


林憲吾:QueryCruise3「タウンとアーキテクト」vol.08参照

島田陽:1972年兵庫県生まれ。建築家。1999年タトアーキテクツ/島田陽建築設計事務所設立