2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

4.27.2011

QC3|01 片木孝治インタビュー「時間と空間のスケールから地域との関係性を構築する」

「時間と空間のスケールから地域との関わり方を構築する」前編
片木孝治インタビュー


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第一回目となる今回のインタビューでは、現在京都精華大学で教鞭をとりつつ、建築家として活躍されている片木孝治氏にお話をうかがった。氏は2004年より福井県の鯖江市河和田地区を拠点に、学生たちとともに地域の様々な問題にアートを介して取り組むプロジェクト「河和田アートキャンプ」を運営されている。「芸術が社会に貢献できることとは何か」を命題に、始動より7年。関与した学生ものべ800人を数える長期プロジェクトだ。今回は河和田という具体的な地域へと身を置き実践される中で見えてくる風景をお聞きしながら、そのような状況において建築/家が地域とどのような関わりを築いていけるのかを考えていきたい。




前編 「河和田アートキャンプでの試み」


―まず現在行われている「河和田アートキャンプ(以下AC)」の拠点、河和田という地域についてお話いただけますか?


福井県鯖江市河和田地区という関係性で、河和田地区(以下河和田)は13の町から構成されている、人口5000人位の集落です。地理的には福井県の内陸部。鯖江市の中心街には、国道8号線が通り、これは京都~金沢~新潟まで続いている北陸街道筋なのですが、河和田はその中心街から東側に、岐阜や北アルプスの山あい方面へ15kmほど入ったところにあります。河和田の大半は山林で、鯖江市の山林地の7割弱を占めています。そんなところなので自然がすごく豊かで美しい場所なのですが、いわゆる「街道沿いの宿場町」とか「観光地」ではないので、日常的に外部から人が入ってくるような場所じゃない。だから河和田を歩いている人は「みんな先祖代々から顔見知り」といった感じの、のどかなところです。


―いわゆる中山間地の集落といったところでしょうか?


そうですね。河和田に限りませんが、過疎化や高齢化といった一般的に言われる問題なんかも抱えている中山間地です。ただ、農林業主体の山村とはちょっと異なっていて、河和田には「越前漆器」という伝統産業があるのです。僕も河和田と関ってから知りましたが、業務用漆器では全国シェア8割といった一大地場産業をもった地域なのです。また鯖江市は、全国シェア9割の眼鏡フレームで有名なのは知っていましたが、それ以外にも繊維産業があります。市外の近隣を見渡してみると、他にもたくさん産業があるのです。鯖江を中心に10キロ圏内には、越前漆器、越前焼、越前打刃物、越前和紙と伝統産業が4つも集中していて、新旧の色々なモノづくりをする人たちが集まっている、とても興味深い地域です。

そういった職人的な気質も関係するのかな? 福井県は「自立心」がすごく強い地域なのだと聞いています。そんな福井県の中でも、この辺りはとりわけ自立意識が強い地域らしいんです。その一例としてこんな話を聞きました。昭和の市町村合併があったとき、鯖江市は、隣の福井市の一部になるかどうか? という話もあったようですが、合併を拒んで踏ん張った。ここ河和田(旧河和田村)は、結果的には、そんな時代の流れの中で、鯖江市に編入合併されたのですが、最後まで反対が強く、市役所機能のもったコミュニティセンターを河和田に置くことで落ち着いたと聞いています。河和田には「越前漆器」という強い産業があるから、自立意識だけじゃなくて地域の実力もすごかったんでしょうね。今は景気低迷に悩まされていますが、バブルのピーク頃には、漆器産業全体で年間に200億円くらいの売り上げがあったと聞いています。


―地場産業の強さも後押しして、河和田では地域のコミュニティが強いわけですね。


そんな河和田に2004年の水害が起こったのです。今で言う「ゲリラ豪雨」の先駆けですね。この年は、河和田の後に「丹後地方」「中越地方」と立て続けに豪雨が起こりました。地球規模の気候変動だということで、環境問題に着手していた僕たちも色々な意味で考えさせられました。

河和田は1000棟以上が浸水し目茶目茶になる惨事に遭って、自衛隊や全国から1万人のボランティアが駆けつけたことに「初めて地域外の人に助けてもらった」「本当にありがたかった」という話を聞きました。最初は「初めて助けてもらう?」と思っていましたが、ある意味で、何でも自分たちの力でやっていこうとする河和田の人たちの姿を見ているうちに、なんとなく「これまでの河和田の人だったら、自分たちの力で、何でもしてきたのかもしれないなぁ」と思うようになりました。もちろん、それは地域内での助け合いでという意味ですけどね。

そういったコミュニティの強さみたいなものは、実は客観的に言われないと分かりませんでした。ACが始まってから2年くらい経った後に、隣の市の取り組みでワークショップをしたことがあるのですが、「あんた京都から来たのか。福井は地域意識が強いから色々大変だよ」と言われ「実は河和田で活動している関係でこちらに来ているのです」と言ったら「よく受入れられたね。福井の人も一目置くくらい村意識と個性が強い、すごいところで活動しているんだよ」と聞かされて、びっくりした記憶があります。


―被災したことで河和田にどのような変化が起こったのでしょうか?


バブル以降、社会全体が徐々に右肩下がりで、中国なんかの海外に生産部門が移行する経済状況の中で、地場産業は将来どうなるのか? といった中での水害。漆器産業の工場や機械、ストックなどが流され、売り上げがどうこうという問題じゃなくなりました。そんなことより「工場なんかに再投資をするか否か?」という根本的な問題をつきつけられた。再びはじめたところでこの先も産業景気が上がるとは限らない。この状況で再資本投入をして、息子たちに商売を継がせるのかどうかという問題もあった。水害は、そんな河和田を「ドン」と落してしまいマイナスの結果を与えたのだけど、地域の人たちは「災い転じて福と成す」って言って、「このままじゃいけない!」と声を上げた。ぬるぬると下降を続ける産業だけの問題じゃなくて、地域や伝統そのものの存続について、深く考えるきっかけになったと聞きました。



―そもそもの話になりますが、河和田との出会いはどのようなものだったのでしょうか?


少し長くなるのですが。2003年に「科学×芸術」をテーマにした「New Letters from Kyoto(NLK)」というグループを、京大の環境保全センターを中心に、京大、日文研、京芸/精華/同志社/立命大の学生や教員がチームを組んで、科学者と芸術家とでコラボレーションをしようというプロジェクトを立ち上げていました。

また、これは偶然ですが、同じ頃、鯖江市が「エコネット鯖江」という環境支援センターの開館準備をしていて、2003年に京都の「都エコロジーセンター」に視察をしたり、保全センターにいた学生(NLKメンバー)にもヒアリングに来られていました。その時点では、NLKとは関係の無い話だったのですが、そんな最中に水害が起こり、たくさんの災害ゴミが出たということで、保全センターにそれにまつわる分別調査の依頼がありました。そこでNLKも災害支援+地球環境問題を兼ねて同伴したわけです。そういう意味では、河和田とは間接的には水害の少し前から関係があったともいえますね。

そんな「ご縁」の中。河和田では、水害の影響で夏の地域祭りどころではなかったので、一時的な復旧が済んだ10月に地域のお祭りをしようということになりました。そこで「何かイベントをしてくれないか」と、僕たちにお願いがありました。被災状況が落ち着いて、ボランティアやメディアも引いていき、地域の人たちだけになったところ、僕らに声がかかったわけです。でも、声を掛けてくれた方々から、地域の人たちへ紹介され、皆さんの前に並び、一通りの挨拶が済んだ矢先に「お前ら何しに来たんや」って迫られたんです(汗)。ちょっとビックリしました。先にも話をしましたが、余所者がコミュニティに入るという意味では、今から思えば洗礼でしたね。

それから、お祭りでワークショップをやって、その関係で何回も河和田に呼ばれたりして。当時はお金も無かったし、いろいろと大変なこともあったけど、今に継続していったわけです。


―それがACへとつながっていくわけですね。ではACについて紹介していただけますか?


これは概要だけですが、ACは大学生が主体となって、約1ヶ月(約40日)の期間を使って、河和田にある「空き古民家」に滞在/共同生活します。また、作品の構想・企画・制作については、地域の人たちと必ず協働でおこなうことを原則としています。

それは、ドカドカと持ち込まれてくる展示やイベント型のアートエキシビションではなくて、学生たち自身が地域住民の生活に寄り添う中で普段なら気づけない、微妙なニュアンスをチューニングした作品制作を行ないます。ちなみに、「チューニング」というのは、同じ言葉を使っていても、その背景にあるものが異なると全くの別の意味に変ることがありますが、それは都市部で議論されている用語も同じであって、その背景を経験として共有することです。そこでできあがる「モノ」の重要性というよりは、その制作プロセスにおいて、芸術が介入することで変化する「地域生活」のようなものをつくっていくこと。少し遠いけど、イメージで言うと「お祭り」が近いかな。

ACを始めた当初は、ノウハウもスキルもないからやり方も分からなかった。でも、前提として大事なのは、こういった企画や運営に腹をくくってやる「人」がいること。そして、それを受け入れてくれる地域住民の「理解」があること。それから、それらを支援する行政の「場所」があることなど、この三輪四輪がないと、こういうプロジェクトは生まれても継続しないと思います。ある意味で、ACは色々な偶然からはじまった活動ですし、すごく良い人たちに恵まれたなかで成立している、稀なプロジェクトだと思います。


―先にもお話があった通り、当初からすんなりと地域へとけ込んでいくことができたわけではないと思うのですが...


そうですね。受け入れ初日に「何しに来た?」と言われてから、取り組みを重ねる度に、地元の人に色々と指導を受けて成長してきました。地元のルールというか、生活のパターンというか。都会での「それ」が大きく違ったり、微細なところでも合わなかったり、そもそも余所者だから不審感を持たれていたり…なかなか馴染むのには時間が掛かりました。そこで僕自身も修正していったわけです。

そんな壁のある状況だったのでなかなか想いは伝わらなかったけれど、地域の人たちの共感を得られたのは、僕自身の生立ち話でした。僕は生まれ育ちも京都の中京区で、実家が祖父母の代まで「悉皆屋(しっかいや)」だったのですが、呉服業はのびないからと受継がせてもらえなかった。世の中全体の西洋化と産業構造の転換で日本の伝統産業が売れなくなってきた状況や問題意識が、京都の呉服業と河和田の漆器業と同じようなバックグラウンドを背負っていたので、正直に「ここでの取り組みを、京都でも活かしたいです」と言ったことで、その後の話が弾みました。これは、断片的な話であって、その他にも僕だけじゃなくて、参加してくれた学生一人一人に至るまで、皆がこういった些細なやり取りを地域の人々と「チューニング」していった積み重ねが、今日の関係に結びついているのです。


―そのような試行錯誤の中でACも様々に変化してきたと思いますが、その特徴をどのように説明されますか?


単なる展覧会やイベントとしての活動ではなくて「(地域)生活」といったフィールドに、アートやデザインといった「感性や表現」の領域をぶつけることで様々な可能性を見出そうというところでしょうか。当初から掲げている命題「芸術が社会に貢献できることとは何か」を模索しています。

ここでは「地域に密着する」ことをテーマにしているので、河和田にある日常生活を、大まかに6つの要素に分解しています。生活を支える「労働」として、農業/林業/伝統産業。生活の知恵を受継ぐ「教養」として、学育/食育/健康といった具合です。また、学生たちのプロジェクトパートナーとして、地域の家族との関係を築く構成となっており、お父さん(林・農・伝)/子供たち(学育)/お母さん(食育)/シニア(健康)といったように、地域の方が日常的に行っている「こと=生活」にアートをぶつけていく。そうすると、ノウハウを持っている地元の人たちが、学生にとっては色々なことを学ぶ先生になる。その先生たる地域の人々が、学生たちのアイデアに触れることで「地域」にも刺激が生まれる。そういった新しい「循環」を生み出すのです。

たとえば食育に焦点を当てるとすると、地元のお母さんやおばあちゃんが行なっている地域の食生活に、こちらからアートなアプローチを仕掛けて「創造」する、ということになるわけです。よく「地域住民との協働」と唱われているプロジェクトも多いですが、実は「協働=マンパワー」でしかない場合が多いのですよね。もちろん、地域住民の善意的な意味合いとしては、協働で間違っていないのかも知れないのですが、ACでは「その人しか伝えられない何か」との協働に着目しています。そういった意味では、これが特徴なのかもしれない。「アートプロジェクト」には関心のある人しか来ませんが、こうした構造をつくることで「芸術の枠組み」みたいなものを広げられたらと思っています。

僕がこうした活動を行っている理由のひとつに、芸術教育を受けた学生たちが「何を働きの場とするか」ということに対して新しい提案をしたい、ということがあるのです。現状は「デザイン事務所に行けたらラッキー」とか「裕福であればそのまま作家活動ができる」ということにとどまっている。才能があるのに、大半は見合った雇用先がない。感性もあってクリエイションをしている人たちの行き先がない。その選択肢の一つとして、こういう地域づくりを彼らの働きの場にできるんじゃないかと思ったのです。


―河和田という地域をどのようにとらえられているのでしょうか?


河和田での活動は、ちょっと特殊だなと思っています。それは、こうした地域活動の取り組み事例としては、地域が豊かであることです。もちろん、水害での打撃をはじめ、人口減少も起こっていて見通しは必ずしも明るくはない。しかし、根本的には、地域の人だけではなんともならない状況ではない。子供たちもまだいるし、低迷しているけど産業があるので、経済的困窮はしていない。

それに比べて、全国に色々とある「農村に人が入っていくプロジェクト」は、村の過疎化/高齢化が目前に迫ってからの依頼活動であることが大半です。そんな状況だから、一番問題なのは、何から何までお願いモードになってしまっていることなのです。地域は依頼側だから頼みの綱である受け側に対して「意見」が強く言えなくなっている、受けた側は「仕事」って感じになるから、そんな関係だと予算もなく、単年度もしくは三年で結果が出ないと「駄目でしたね」と活動が終わってしまう。残念ながら、こういった繰り返しでは活動が継続しないんです。

そういった意味では、河和田は地域力もあるし、ACとの関係も対等だから、地域活動が存続するモデルケースとして可能性があります。


―短期的に結果を求められてしまうこともあるのでしょうか?


それはあるでしょうね。ただ、高度情報化社会では情報だけじゃなく物の流れも含めて「早いこと」が美徳になっています。ACでも、そういった速度感のようなものを地域や学生からも求められたりしますが、僕はそれに違和感があり「鈍速力」という言葉を使って色々な方に説明をしています。全ての事柄について「速さ」を否定するつもりはないですし、闇雲に時間をかけろとも言いません。車で云うとギア比みたいなもので、あるトルクをもって堅実に進む、適時適所なタイムスケールがあるということなのです。

いま世の中は便利になりすぎて、何か物をつくりだそうという「不満」がないと感じます。例えば学生に「デザインしていく意味が分からない」と言われると「そうかもしれないな」と思ってしまうときがあります。それはある意味で、クリエイションの危機だと思うんですね。かといって「もうデザインはいらない」のかというと、それは疑問です。そのとき枝葉に行くんじゃなくて、幹の方に向かわないといけない。ひとつのことにじっくりと時間をかけるというか。そのとき河和田という地域は、考えるためのよりよい環境を与えてくれます。「鈍速力」という言葉で言わなきゃならないことはまだまだ見つかると思います。


―具体的にどのようなお話があったのでしょう?


「鈍速力」にも関係しますが、僕が最初に地元の方に言われたのは「予算800万あります。これを片木さんに預けますからどう使ってもいいですよ」と。それで「どうしますか?」と聞かれました。インパクトのあるイベントをするなら、アーティストを使って一年で800万使ってしまう方法もあった。しかし、僕は「長く使いましょう」と、地域再生に一年100万ずつでも、長く使っていく選択を選びました。今から考えると、僕が「800万使います」と言っていたら、たぶん「さよなら」と言われていたでしょうね。


―そのお金はNPOから?


そうですね、NPOの予算でした。しかし、当初は持ち出しして活動していましたね。


―では単年度的に終わってしまう取り組みは「予算を短期間で使い切ってしまうから」ということが原因なのですか?


予算だけではありません。受入れ側/参加側ともに人が流動的に変わっていくという理由もあります。ACの受け入れ態勢は、7年やって7回とも違いました。大抵のプロジェクトが続かないのは、こういったことも予算以外の大きな原因かも。決まったマニュアルは無いんです。それは呼吸というか、地域との掛け合いみたいなものです。初期段階で、僕が教員でなければ経済的にも厳しかったと思います。だから、かなり綱渡りのプロジェクトであることは確かです。しかし、ACは多様な側面があるので、持続さえすれば予算の取り方に柔軟に対応できる可能性を持っています。


―どういうことでしょうか?


例えば、大抵のアートプロジェクトは文化庁付けの予算で芸術振興系のものになるんです。でもこれは僕が「全国自治体学会」というところに呼ばれたときに言われて気づいたんだけど、ACの構造には興味深い可能性がありそうだ、と。つまりこういうことです。行政は「縦割り」になっていて、予算には、農林系の予算、教育系の予算、社会福祉系の予算など様々にある。その中で例えば文化事業なら文化事業系の予算だけしかつかないんだけど、文化庁に限らずどこの事業予算も大抵は3年程度で切られてしまって、それを再度取得するとなると難しい。一方でこのACの場合、これを文化事業としても位置づけることができるし、先にお話した通りこれを要素に分けることもできる。そうすると農林系(農業とアート)、教育委員系(教育とアート)、社会福祉系(健康とアート)という具合に個々に予算確保できる、そういう柔軟性があります。もちろん、まだその技までは行っていませんが「これから戦う大きな波」だと思っています。ACは毎年予算と格闘しなければならない。今後は、行政と参加費だけではなく、ACを続ける中で企業との事業や出資も考えています。


―ACに多様な側面があることで、行政というシステムを逆手にとることができるというわけですね。


そうですね。行政自体もこれまでのシステムが邪魔で新しいことできないんじゃないかな。例えば、普通ならば困る話とされている「行政の担当者が3年で変わる」ということに関して。ACの場合はこれがメリットなんです。というのは、ACに関わってくれる人は大体プロジェクトのファンになってくれるんですよ。行政と言っても「人」なんです。さすがに一年目は恐い(笑)。役人という感じで四角四面なことしか言わない。「これはダメ」「別の方法で…」とかね。でも一夏過ぎると気持ちが揺れてくる。「じゃあ来年はこれもやれるよ」なんて言ってくれる。三年目になると「あれもこれもやりましょう」となるんです。僕らとしてはもっと踏み込んで欲しいんだけど、担当者にも立場がある。そんな立場も、四年目になって担当部署を外れると、責任もなくなるので、すごく支援してくれるんです。移転先の課で「こういうことやってるから、これをACとコラボレーションできないか」という形でね。これも、ACの可能性なんです。


―ACが長く続くことによるメリットですね。


そうですね。ひとつ、アミタというACの農業系のような試みを行っている企業を例に挙げてお話します。ジャージー牛を山に放し、下草を食べさせながら育てる。そうすることで山の保全をしながら、牛は厩舎でストレスためず元気に育つ。牛乳も濃厚でおいしい。値段は高めなんですけどね。とても興味深い取り組みをされているけれど、企業の宿命というべきか、3年で目処が立たないと撤収とか。担当の方は、5年やらせてもらったら軌道にのる自信がある…といわれていましたが、企業理念からするとNG。地域づくりがビジネスとなりにくい所以ですね。

他方で、ACは幸いなことにこうした構造ではありません。ゆえに、もちろん何を持って成功と言うかは難しいのですが、もう少し長期的なスパンで事業の成功を目指していくことができると思っています。ACでは20歳の子が20年経って、そのときにもこの河和田で事業が続いていれば、OB・OGとして何かできる。参加しに来るだけじゃなく、彼らが勤めている会社のビジネスを地方との共同で行うことができる。ビジネスライクなつきあいじゃなくて、もう少し濃い関係が築けると思うんです。地域は彼らに期待すべきでしょう。そして彼らとの関わり方をデザインしなければならない。

ということで、今は、地域のリサーチを行っています。技術をまず知ろうと。産業がいっぱいあるので、どこにどのようなことをしている人がいるのか? 彼らがどのようなスキルを持っているのか? こういうところは大まかに情報が集まってきました。そしてそのような人々とスタッフがコミュニケーションを始め、関係をつくっているところです。それをストックしていこうと考えています。


―地域で生まれた関係を、さらに一歩進めようということでしょうか?


「地域にとってメリットとなることはなんだろうか」ということを考えています。以前、学生たちと金沢に行ったとき、美しい山中漆器を見たんですが、でも一緒に行ったACの学生たちは買わなかった。漆器を買うなら河和田だ、と考えているからだと聞きました。人との絆ができているから情が動くんじゃないかな。ACを通して河和田での生活を経験してくれた人たちが累計で800人いて、例えば彼らの何人かが結婚式の引き出物を河和田で買おうとしてくれるだけでも、状況は少し変わりますよ。作り手は見えているし、直販だからデパートで買うよりも安い。一過的な旅行者がきても持続しないし助け合わないですが、こうやって地域を知っている人をどんどん経験者として排出していくことの意義はあると思っています。


ーこれまで比較的大きな枠組みや見通しを話していただきましたが、地域に根ざして活動していく中で「小さな問題」も様々見えてくると思いますが。


そうですね。一つの例として「民カフェ」というプロジェクトについてお話してみます。実際にお住まいにされている家を開放していただいて、カフェにするというプロジェクトです。すごく良い庭があっても、住宅はプライベートな空間なので一般の人が入れないんですね。そこにアートやカフェという名目が入ると、住宅がパブリックな場になるという面白さがある。学生が、独居老人であるおじいちゃんやおばあちゃんの持っている長寿の秘訣の食べ物などをメニューとして出します。その点、食育的なところもあります。ただ、一番大きいのは独居老人が学生たちと一緒に生活できることなんですね。血縁でない新しい家族の形「擬似家族」がつくれる。

これはメタに言うと最近の無縁社会に対する一つの解答だと思います。それこそ「コミュニティ」ではあるけど、これは「地域」とはちょっと違う。都市部から学生が来て少なくとも一ヶ月の間一緒に生活することで人間関係が築ける。その時にもしおじいちゃんおばあちゃんが倒れたりしても、発見できるから命が助かるかもしれない。ACの時にお風呂に入りにいったり、ご飯を一緒に食べると元気になるんですね。老人が元気になると地域も明るくなる。そんなに大したことはしていないけど、本当は他人の家でカフェをするなんてハチャメチャなことのはずなんです。これは地域力やコミュニティが幸せな状態であるから成立することかもしれない。人と人の絆づくりだと思います。


―あらかじめリサーチして問題を発見し、それを解決する、というモデルとは異なりそうですね。


実際やってみて気づくことの方が多いですね。都市部で想定している問題は大抵メタレベルで見たときに思いつく「大きな問題」に収束してしまいます。例えば、空き家の問題は「大きな問題」としても捉えられます。しかし、本質はその背景になっているもっと深刻な「小さな問題」なんです。「問題だ問題だ」と繰り返してしまうことも問題ですけど。今の河和田では、空き家はポツポツですが、独居老人が住んでいる家が沢山あります。息子や娘さんが近くに住んでいる場合は、それほど心配ないのですが、県外で仕事や家庭を持っている場合が案外あって、これが深刻です。10年、20年もしたら遺産相続されたとしても空き家になり、彼らも帰ってくることはないでしょう。

都市部だと、空き家は「お化け屋敷だ」とか「人気が無くて治安が悪い」とか、集団的に考えても「火災の心配」程度で、時間と共に相続なんかが整理されたら新しい所有者が現れて、平常化する。しかし、過疎化する地域は家が残り続けるケースが多い。買う人は稀。その時やはり意味合いが変ってくる。例えば河和田は豪雪地帯にありので、空き家に積もった雪かきであったり、豪雪などで家が壊れたりすると、それこそ大変。誰がそれを処理するのか。リアルタイムに処理されないと住民の死活問題にまでなる。そうするとそれを抱えるのは地域で、こちらのほうが問題だと河和田の人は言います。すなわち負の遺産。過疎や高齢化から起因する問題ですが、実は、同じ空き家問題といっても、こういった都市部での実感のない違いが、むしろそれより重い二次的問題で本質だったりします。