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10.28.2011

QC3|05 佐々木龍郎「地域に関わる回路を増やす―マクロ、ミクロ、そして都市」




「地域に関わる回路を増やす―マクロ、ミクロ、そして都市」
佐々木龍郎インタビュー


今回お話をうかがった建築家佐々木龍郎さんは、極めて多様な活動に関与されている。建築の設計管理、調査研究、商品開発、教育、そしてまちづくり。自身が提示されたこれら5つの分類それぞれにおいても、より多岐に渡る依頼者や共同者とともに、異なった状況のもとで、建築的実践のなかで得た知見を動員されながら問題解決に取り組まれている。今回のインタビューではとりわけ「まちづくり」の現場に焦点を当て、過去から現在まで携わられた多様なプロジェクトを例に挙げていただいた。地域との関わり方を具体的に見ていく際、その「多様さ」は地域別というように横へと広がっているだけではない。言わば地域を見通す際の「縦」の視線として、常に考えられなければならない層の違いがそこには存在しているということがここでは問題となっている。(2011年8月、佐々木設計事務所にて)


後編はこちら
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前編


―佐々木さんは現在極めて多くの活動を行われ、また多くのプロジェクトに関わられていますが、これを見取り図的に説明していただけますか?


活動の種類は大体5つです。メインは建築の設計監理です。大きいものでは約1000床の病院の増改築を10年くらい手がけていたり、一方小さいものだと20席くらいのフレンチのビストロの内装の仕事をしていたり、それが去年ミシュランの星を一つ取ったのですが、ジャンルも規模もさまざまです。次にまちづくり。主に横浜で、他に宇都宮、舞鶴、古河など。民間とやるケースと、行政から委託されるケースと両方あります。千代田区から委託されて景観アドバイザーもしています。3つめは調査研究。これからの住宅のこと(ハ会など)、リノベーション(HEAD研究会TF4など)、被災地支援(仮り住まいの輪など)とこれも多岐に渡っていて、頼まれるものもあれば自発的にやるケースもあります。4つめは商品開発に近いもの。例えばアルミ構造住宅の普及プロジェクトに携わっています。アルミ構造住宅については既に、難波和彦さん、伊東豊雄さん、山本理顕さんといった方々が手がけられてきていますが、そのような単体の設計ではなく、もう少し汎用化し普及できないかということを市場の話を含めてやっています。最後に教育。基本は建築ですが、東大の都市工で教えていた時期もあり、商学部の学生や社会人向けの講義もしています。立場も以前は東海大では期限付き准教授として、今は主に非常勤講師として教えています。


すべてに共通しているのは、建築の経験で得た知見を総動員して物事にあたっているということです。言い方を変えれば、建築は本来、総合的な知見を鍛えるには最適な学問、専門領域と言えると思います。


今回の話の中心になるであろうまちづくりに関して言うと、きっかけは今から約13年前、1998年ごろです。当時、僕は30で独立して4、5年たったところで、つくったものを雑誌やメディアに載せていただき、いわゆる建築家として活動していたのですが、ふと建築単体のことだけではなく建築の前提となる都市のあり方や成り立ちに何らかのかたちでコミットメントしていかなくてはいけない、と思い立って意識的に都市に目を向けはじめました。誤解を恐れずに言うと、建築家は都市を語るときにやはり自分の建築の成立背景として都市を語ることが少なくない。一方で、僕は都市に実際にタッチできないか、都市の成立に直接関与できないか、ということを考えていて、その気持ちは今も続いています。


―最初に関わられた地域は?


横浜です。1998年に横浜で「第2回ヨコハマ都市デザインフォーラム」という国際会議があり、その手伝いをしました。もともとはその頃「30代建築家100人会議」という集まりの世話人を塚本由晴さん、手塚貴晴さん、みかんぐみの曽我部さんといった人たちと一緒にしていて、あるシンポジウムで都市をテーマにしようという話になりました。たまたま西沢立衛さんと僕が担当で、以前からよく知っている方だったのですが、当時横浜市の都市デザイン室長から東大都市工に戻ってきていた北沢猛さんを二人で尋ねたんです。その時はシンポジウムに関していろいろアドバイスをもらったのですが、次の日に電話がかかってきて「横浜手伝ってよ」と言われていきなり巻き込まれました。


―具体的にどう巻き込まれたのでしょう?


「都市デザインフォーラム」は海外の人も含めて300人くらいが集まる会議だったのですが、議論のきっかけとなるような資料づくりからはじめました。「とりあえず100ぐらいアイディアないと格好つかないんじゃないの」という勢いで、アイディアを片っ端からA5サイズのカード形式にまとめていって、最終的に90枚は僕らがつくり、10枚は白紙にして参加者に委ねよういうことになりました。カード制作のメンバーは建築家のみならずグラフィックデザインや都市デザインなどの専門家と、それから「町方」と呼ばれる関内・馬車道・元町・伊勢佐木などのエリアの方々、そして行政からも都市整備局、経済局などいろいろなところから人が集まってきました。大体6ヶ月ぐらいかかったと思いますけど、このカードは紙芝居のように組み合わせてシナリオをつくれるようになっているので、その6ヶ月の間に市民を交えたワークショップも開催しカードの内容を充実させていきました。この100の提案カードは2006年にUR都市機構の協力を得て『まちづくり101の提案カード』として出版され、今も販売されています。


一方で、フォーラムが終わった後も、カード作成に携わったメンバーが自主的に「この成果をなんとか横浜のまちづくりにつなげていけないか?」ということで、馬車道のサモワールという紅茶専門店で月1度の集まりを続けていて、それが2001年2月に「横濱まちづくり倶楽部」というかたちになりました。これはNPOではなくただの任意団体です。地域の方と行政と専門家がそれぞれの立場を超えて話し合う場として設立されました。夜な夜な集まり、酒を飲みながら言いたいことを言う。でもそのメンバーがなかなか強力で、横浜に深く関わっている人たちがたくさんいて、それが異業種交流のようなかたちで集まってきました。この倶楽部は今も継続していますし、僕も理事として携わっていますけど、1998年から2006年の間に30強のアイディアが実現しています。これはかなりの打率だと思うのですが、強力なメンバーとそれをお互い束縛しあわない組織のあり方がもたらしたものだと思っています。個人的に言えば、この過程で培った人間関係により横浜では50近いプロジェクトに携わってきています。でも実は建築の設計監理のプロジェクトはほとんどなくて、あってもリノベーションや改修をいくつか手がけてる程度です。意図的にそうしているわけではないのですが、まちづくりに関する調査研究や教育関係が多いです。


―その他にはどのような地域へと関わられたのでしょうか?


まずは宇都宮ですね。大学の後輩が地元で空洞化した中心市街地の再生を考えているということで、一度シンポジウムに呼ばれて行きました。もう10年以上前です。JR宇都宮と東武宇都宮との丁度中間くらいで、2つの地元デパートがつぶれ、西武も撤退という状態でした。唯一残っているのがパルコでした。地権者や商店主、宇都宮大学の先生や学生たちが集まって議論していました。僕はその時に正直な印象として「過疎化すればいい」と言ったんです。もちろんいい加減に言ったのではなくて、宇都宮は環状道路が整備されてそこに4つぐらい大規模商業が立地して、生活がそちらにシフトしていたんですね。このような時に、無理矢理中心の密度を回復するのは無理なので、これを機会に中心の密度を減らして、減らしたなりの新しい都市の価値をつくればいいと考えたのです。シエナのカンポ広場ぐらいの広場ができるな、とぼんやり想像していました。会が終わった後に、ある地区の再開発準備会の地権者の方々が4、5人いらして「そんなこと言わないで手伝ってくれ」と言われて巻き込まれました。最初の打ち合わせに民民の餃子を積まれたのが大きかった。


この地域はもともと行政がコンサルタントをつけていました。ただ彼らは巨大な開発しか考えていなくて、住民から「本当にこれしか無いのか?」という疑問が丁度出ているというタイミングでした。それで再開発という土地の高度利用に対して、土地を低利用する代替案をつくって話し合いを続けました。最初、行政からは東京から来た若い奴が住民をあらぬ方向に扇動している、とブラックリストにも載ったそうなのですが、そのうち誤解が解けて、最終的には行政から一部コンサル業務を委託されるまでになりました。ただ、最終的に別の事業協力者や別の設計事務所が介入してきたりして、住民たちの気持ちもバラバラになってしまい、今は休止している状態です。





一方、京都の舞鶴。もともと北沢猛さんが亡くなるまでまちづくり全体に関与されていたところです。そこに旧海軍時代の旧いレンガ倉庫がいくつもあり、それを文化芸術に活用できないかということで呼ばれました。その時はアラップというイギリスに本社のある総合エンジニアリング事務所と組んで、レンガでレンガ倉庫を補強するという新しい提案をしました。実現にはいたりませんでしたけど、僕らは旧いレンガ倉庫の活用だけではなくそれを全体のまちづくりにつなげていくこともできるので、その点が期待されていました。


他には茨城県の古河市。古河駅のすぐ近くの道路が拡幅されるということで、昔の町家建築や蔵などが全部壊されてしまう、という状況がありました。そのなかで活用可能ないい状態の建築は曵屋などをしながら、また新しい建物についてはデザインガイドラインなどを設けて町並みを修景できないか、というシュミレーションに取り組みました。ここでも個別の建築をどうするか、ということと、それが集まった時の町並みがどのようになるのか、どちらかではなくその両方を考える必要がありました。蔵の保存に携わっていた東海大学の羽生教授は僕の中高大すべての先輩で、かつその時期に僕自身も東海大の特任准教授だったこともあり、彼に呼ばれて地域に入りました。2年ぐらい住民とワークショップをしたのですが、その甲斐もなくほとんどの建物は壊されてしまって駐車場等になってしまっています。


それから、つくばエクスプレス沿線の柏の葉。そこには、東大と千葉大、三井不動産、柏市などによる「アーバンデザインセンター柏の葉(UDCK)」という組織が駅前にあります。これも亡くなった北沢猛さんがつくった組織なのですが、そこで公共空間の新しい実験をしたいということで、既存の仮設建築のユニットによる公共建築の整備に携わりました。最初は学生たちが課題として取り組んでいて、そこに僕ら専門家が加わるかたちで実現していきました。市の出先となるインフォメーション、小さな図書館、アーティストが滞在しながらものをつくれるレジデンスという3つの小さな公共建築による街をつくりました。これは今もかたちを変えて継続されています。


そして、もう一度横浜に戻って「2059年海都横浜構想」というプロジェクトに関わってきました。50年後の港のあり方、都市のあり方を描こうというもので、2009年の第3回にあたる都市デザインの国際会議にて発表されました。高度成長を支えてきた工業港湾、物流港湾から、「インナーハーバー」と呼ばれる横浜の内港部分では、少なくともそのような20世紀のゾーニングが見直され、「生活」「産業」「交流」とが複合する水辺が形成され、それを支える「交通」「環境」が整備されるというものです。インナーハーバー全体の絵だけではなく、山下埠頭などの具体的なイメージも作成しました。ハードが際立つだけではなく、いかに人がいきいきと居られるのか、そのような点に注意しています。


こうして見てみると北沢猛さんとの関わりが多いのですが、彼が僕を呼ぶ理由は明確だったと思います。僕は意識的に都市と建築に跨がって活動しようとしていて、もちろん完成度の高い単体の建築をつくることが一番の幸せなのですが、それとは別の視点も併せ持っています。全部自分で隅々までつくり込むのではなく、他者との協同を前提としなければならないなかで何ができるのかいつも考えています。建築家としては中途半端かもしれないけど、単体と集合の関係を常に考えながら、どこにどのようにコミットメントしていけば建築の価値や都市の価値をつくりだして行けるのか、いつも考えています。


―それぞれの地域ごとに背景が異なり、また関わり方も違うと思いますが、その点も考えあわせてどのような問題点がありましたか?


横浜では最初から、エリアの方々やそこで長く活躍されている専門家の方々、また行政の方々と知り合うことができて、言い換えれば街と接触する回路が多いということになります。この「回路が多い」ということはとても大切です。回路が一つしかないと、それが閉じられれば関係が切れてしまって、その地域にコミットメントできなくなってしまいます。実際に舞鶴の場合は完全に行政の人とやっていて、行政の人は一定期間で担当が変わってしまうので、その変わり目で全体の枠組みも一気に変わってしまい距離を置かざるを得なくなりました。


古河も一緒です。東海大の同僚と一緒に関わらせてもらっていると先程言いましたけど、そこではワークショップを通じて住民の方々とも対話をする機会があったので住民から直接相談を受ける回路も出てきました。そうなると、やはり地域に入っていったあとにどういうつながりができるのか、回路のタイプと数によって大分変わってきます。単純に言えば、たくさんあればあるほど関与の幅もでてきます。舞鶴のケースなど、行政からのみの回路だと切れて頓挫してしまう可能性もある。


それと行政からの委託は入札形式になることが多く、持続性が担保されていません。特にまちづくりは3年から5年くらいは継続して関わらないと効果が上がらないと思っていて、僕の仕事に問題があればもちろん切られていいわけですが、喜んでもらっているのに続けられないという問題も少なくありません。行政によっては「前年実績」ということで続けさせていただくこともあるのですが、担当者が変わると刷新ということも少なくありません。その意味で簡単ではないですね。


後編へ続く


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プロフィール
佐々木龍郎(ささきたつろう)
建築家/1964年東京生まれ/東京都立大学(現首都大学東京)大学院工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学/株式会社佐々木設計事務所代表取締役/神奈川大学・京都造形芸術大学・東海大学・東京電機大学非常勤講師/千代田区景観アドバイザー/横濱まちづくり倶楽部理事/東京と横浜(宇徳ビルヨンカイ)に拠点/建築設計監理・まちづくり・調査研究・商品開発・建築教育。