2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

12.24.2011

QC3|06 untenor「地域を拠点とする活動の応用可能性を考える」



地域を拠点とする活動の応用可能性を考える
untenorインタビュー


前編はこちら
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多方向から複層的なストーリーを並走させる




―最初に「untenor」の活動をモデル化するという話が出ていましたが、地域で起こっている問題はそれぞれに異なっていて、それに対する解決策は画一的にはならない、ということは広く共有されていると思います。そこでの「モデル化」ということをどのような意図で言われているのでしょう?



地域によって具体的な差異があるというのは前提としてあるんですが、その差異自体も抽象化してスキームをつくりたいという思いがあります。先も触れた「CITY LAB」では個々人の友人知人関係を洗い出す相関図のリサーチをしているのですが、出てくる固有名詞やそこでの関係性は随分と多様で、かつ、そこにしかないものなのですが、俯瞰して見て「固有名だけを扱う」ということはどこでも可能だと思います。メタレベルでさらに俯瞰しないとモデルにはなりません。人の名前や関係性は地域によって違いますが、根本的な部分というか、例えばそこの社会関係資本がマイナスという問題を共有しているところは多いでしょうし、ある一定の割合でキーパーソンがいて、その人をいかに刺激するかが鍵となっている点も然りだと思います。山崎亮さんはそれをモデルにしないまでもつかんでいて応用しているんじゃないかなと思います。




RE03における相関図リサーチ




付け加えると、政令指定都市は行政施策的に似通ってくるので、同じスキームをぶつけるという方向性もあると思います。ただしプロセスと導き方に注意しなければいけなくて、多様な解答を位置付けることが必要なわけです。辻が話した「固有性を出す」という方向性や、ひいてはそもそも「地域づくりをどうやっているか」は同じスキームとして他地域でも出せるものだと思っています。


―吉岡さんは貝島研でまちづくりの活動もされていますが、その経験が「untenor」に影響を与えているところは?



僕が修士課程の1年時から関わっているプロジェクトとして、埼玉県北本市の「北本らしい“顔”の駅前つくりプロジェクト」があります。駅前再開発事業と一緒にエリアの活性化をしようというプロジェクトです。相互にフィードバックしながら、設計はアトリエ・ワンが、まちづくりは研究室が担当するという形で進んでいます。このプロジェクトではどのように市民の活動と新しく設計される広場とを地続きにし、育てていくかが重要だったので、この頃から場所と出来事の問題を併せて考えることに関心を持つようになりました。建築設計だけをやっていた時に、荒い解像度でしか見えてなかった「プログラム」という言葉の前後にある主体の問題、仕組みの問題、運営の問題などトライ&エラーを繰り返しながら学びました。現在も後輩たちが継続してやっているのですが、毎年活動にキャラクターがあり非常に勉強になります。

この経験から「untenor」の活動に繋がるポイントとしては、「プロジェクトを通した関係性の強化」がまちづくりという文脈で非常に有効であるという点です。簡単な例だと高校の時の文化祭の後にみんなが何となく仲良くなっている感覚です。北本でもプロジェクトを共有することで、関わった人がそれぞれ持ち帰るモノがあり、共に育っていくような実感がありました。浜松での辻との恊働はそれがもう少し抽象化された状態です。現場のリアルな実感を、なんとかヴィジュアル化したり、言語化する作業にも力をいれ、共感できるようにメディア化しようとしています。これは「現場×メディア」のハイブリットな状態で、相互にアイデアがフィードバックされているように思います。

このような物語性を付加する方法はまちづくり的状況に向いています。建築家が担当するまちづくりの多くはさっぱりしてるんですね。段階が明確に分かれている、分けざる得ない状況があるのですが。でも北本の場合はアーティストも入り交じっていたので少し異なっていました。アーティストの人はあんまり区切っていかないんです。ストーリーが併走して、それがどんどん増えていくという状況を好むと思うんですね。例えば空き室を改修するにしても、普通には改修しない。デザインして、改修して、完成という普通のストーリーは語らない。改修のための素材を集める段階で、「誰々さんが何々しにきた」ということを語るわけです。つまり「改修する」というストーリーと同時に「改修をきっかけにして様々な人が出入りする場所ができています」というストーリーが並走していく訳です。それはまちづくりという文脈とすごく相性がいいと思うんです。そこに影響を受けましたね。


―「untenor」にとってここで言う「ストーリー」とは誰にどのように語られるものでしょう?



基本的にはストーリーは個人が語るものです。しかしプロジェクトを共有しているまちづくりのような状況では、全体の指揮者のような人はいないけれど、個々の人がそれぞれに読み替えをしていて、それを共有しているというか。そうするとひとつの大きなストーリーではなく、多方向から様々なストーリーによって事象が説明されるようになります。あるひとつのプロジェクトでも、語る人が変わればストーリーが変わるような重層的な価値をどのように担保できるか、プロジェクト自体が複雑化する時代だからこそ、ワン・ストーリ-で語れるものではなく、強度ある並走するストーリーで語られるものが必要です。主体性を持って自分のストーリーでプロジェクトという場を語るような創造的な関係性に興味があり、みんなで情報を共有しておくことによってそれをつくり出すということが求められているんじゃないかと思います。僕らはそれを浜松でやろうとしているんです。




ゆりの木通り商店街主催のイベントの様子




役割を強いて挙げるならという感覚もありますが。周囲や自分への明確な役割分担というかミッションを意識せずとも、関わる人が扱っている情報量はいっぱいあるわけです。それをあえて整理しないで、有機的な関係性のなかに身をあずけるというか。そうするとまちづくりという複雑な状況のなかで、自分の役割が自然と出てくるのかなという気はしています。街の中での自分の役割を結果的に見つける意識よりも、その見つけられるべき役割を意識せずとも多様体の中で自然と実行してしまっている自分の行為の集積を積極的に肯定していく複雑性を意識したいのです。



解像度を上げ、徹底的に俯瞰する



―現在まで浜松という具体的な土地、そして「まちづくり」というある広がりを前提とするようなやや抽象的な範囲についてお話してきましたが、お二人にとって「地域」とはどのようなものとして見えていますか?



僕はコミュニケーションの質と量が一定範囲のなかである程度保たれているという状態かなと思います。だから「郊外」というくくり方は「地域」とは思いません。地域というと思い浮かぶのは、浜松では中心市街地のレベル、それと山の中にいったところとか。でもそれ以外の茫漠と広がっていく郊外に対して地域という概念を当てはめていくことはできないと思いますね。

ただそれも解像度の問題かもしれません。「解像度を上げる」ということは非常に重要です。REでの一連のカリキュラムでも意識している、自分の周囲にある実感可能な固有名詞を調査対象にして積極的に面白がるということはこれからのまちづくりにとても重要だと思います。ものや人や概念が飽和していくなかでできることといえば、それらを横滑りさせて新しい価値を与えることくらいしかないようにすら思えます。固有名詞をひたすら追って、発掘して、編集する。つまり自分たちが持っているものだけで十分なんだと思えることが市民がまちづくりに関わるモチベーションの契機になるのではないでしょうか。その市民レベルの気づきがあって初めて、フォーマルなまちづくりが機能していくというか、ボトムアップの動きがフォーマライズされていくような地域のあり方が今の時代に必要かなと思います。徹底的に解像度を上げ、その分徹底的に俯瞰する、そういう態度で僕は地域に接していきたいと思っています。


僕の場合はネガティヴな制約を共有している人たちのことを「地域」と呼びたいですね。それは地理的なものかもしれないし、「買い物弱者」と呼ばれるような人たちが集まる場かもしれない。その「制約」みたいなものを顕在化させているところがいわばコミュニティかもしれません。一方で、その制約がポジティヴに働いて主体間のコミュニケーションが促進されたりということもあるでしょう。「地域」は本質的にはある種のマイナス要素を抱えていて、ゆえに相互扶助が必要な状況です。ゆえに繋がりが強調され、現代に多くの人々が求めているものがそこに生まれるのだと思います。


山崎亮さんがコミュニティの話をするときテーマ型と地縁型という話をするんですけど、僕らが飛び込んでいるところはテーマ型であると思うんですね。地縁型ではなく。でもそのテーマというのが、「中心市街地がまずい」ということそれ自体がテーマ化している状態にあるような気がします。だから行政の人も、なんとなく大義名分があるということは前提なんだけど、ある明るさをもって活動できているというか。それは僕らも共有しているんです。だからそのテーマが「星を見る」とか「サッカーをする」とかではなくて、もう少しただ社会的なだけというか。そうするとその分入ってこれる主体も多いだろうし、その持続性もあるんじゃないかなと思っています。





machinobaオフィス




「インフォーマルである」ことを「継続する」



―では最後に、これからの展望についてお話をうかがえますか?



教育は自分たちがいままで枠組みを設定しないということで続けてこれた、ひとつの「枠組み」なので、これは継続したいですね。今後は、にぎわい協議会と行政という官民のまちづくりの主体とうまくバランスを取りながら少しずつプロジェクトを起こしていくような段階に入っていくと思います。既存の保守的な既得権益とつながっているところで教育をするんじゃなくて、それこそ実験的に教育する矛先はいろいろあると思うんです。それをどこにと限定せずに、ある種インフォーマルな状態で、自分たちが何者かを明かさずに教育する(笑)ということも続けていきたいなと思っています。


「継続する」ということと「インフォーマルである」ということは言わば相反するものだから、そのあたりのバランスを意識していかないとと思っています。いつの間にか「既得権益集団」になっていたりということもありますからね。結局いままでのフレームに落ち着いてしまった、ということがないようにしたいと思っています。


自分たちが浜松で活動して、なるべくボトムアップ型の、インフォーマルな、教育やまちづくりを意識するのは、自分たちが東京で学んで、トップダウン型の計画の、フォーマルな大学教育と設計教育を受けてきたからこそ意味があるんだと思うんです。震災における東電問題に代表されるような既得権益を否定することは簡単ですが、その既得権益の恩恵によって僕らは生かされてきているわけですから、彼らを否定することは自分自身を否定することと同義なんですね。

そういう二極化した矛盾を引き受ける思考法を実践するに当たって、浜松と東京、ベタとメタ、批判と肯定、既得権益とラディカリスト、吉岡と僕、というような様々な軸を「untenor」は引き受けたいと考えていて、大きなことを言えば、二極化する世界の把握の仕方を発信していきたいと思っています。その上で正当な批判を実践したい。

なんというか、世間では日本の政治も経済も地域も終わったという言説が明らかに当たり前に空気として共有されていると思います。少しでも国内や国外の社会情勢に興味がある人は既得権益を批判することで自己を保っている程度の状況でしょう。人口配分的に若者は高齢者の負担を背負わなければならないのは明白だとか、つまり私たちの周囲にある状況は少しでも思考したら絶望につながっていくと思うのですが、この絶望こそ、誤読されるべきだと思っています。


「untenor」が浜松を舞台に活動していることを大きく言ってしまうと、自分たちの都市への権利を取り戻すための活動の一つであると思います。主体性を持った都市との関わりを構築する方法を不器用に模索していると言うか。僕たちは生活に、強いて言えば都市にあまりにも無関心であったために、現在の権利をはぎ取られた、言い換えると効率的な委託の文化に依存した状況が生まれています。少しでも現状に介入し、より良い流れをつくり出すためのゲリラ戦を、自分の関心に近い対象で実践していきたいと思います。

昔からシチュアシオニストにかなり惚れ込んでいましたが、浜松で劇作家の岸井大輔さんと会いハンナ・アーレントを知り、公共圏という言葉を知りました。都市の権利を取り戻すために公と私との間に広がる境域に対し、制度的にも、方法論的にも、ふるまい的にも、活動の実践を蓄積していきたいと思います。これは各地で活動されている方と関心と繋がる部分であり、ディテールの議論を深めていくことでより面白いことができると思っています。
(了)



カギヤハウス4Fの写真



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プロフィール

untenor

辻 琢磨
つじ たくま
1986年静岡県生まれ。
横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA修了後、Urban Nouveau*勤務。
現在、403architecture [dajiba]共同主宰


吉岡 優一
よしおか ゆういち
1984年静岡県生まれ。静岡文化芸術大学デザイン学部空間造形学科 寒竹伸一研究室卒業。2009-10年 オランダ王立デルフト工科大学インダストリアルデザイン学科正規交換留学。現在、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程 貝島桃代研究室に在籍。