2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

8.12.2011

QC3|特1 再現:まちあるき with 加藤政洋「都市景観のヘテロトポグラフィ」




「都市景観のヘテロトポグラフィ
 —せんなか半径500メートル—西陣のへそを歩く—」
 from QueryCruise vol.2



今回はQueryCruiseの第2回に行った、加藤政洋さん(人文地理学者)とのまちあるきを可能な限りここに再現してみます。京都、千本通りと仲立売り通りとの交差するところ、通称「せんなか」を中心に半径500メートルを辿るこのまちあるきにつけられたタイトルは「都市景観のヘテロトポグラフィ」というもの。隣り合いながら、にもかかわらず異なる景観を語ること。都市はのっぺりとしたものではなく、異なる時間、文化、そして空間が隣り合いながらレイヤーをなしています。<京都らしさ>からは抜け落ちて行く、しかしこの地についての記憶を確かに残す物理的な痕跡を「景観」という観点から見て行こうというのが、このときのねらいでした。
「地域はレイヤーとなっている」という今回のインタビュープログラムの根元にある考え方の出発点ともなっています。(2010.02.21実施)


※以下お届けする加藤さんのコメントは歩きながら録音したものであるため、残念ながら完全ではありません。その一部分をお届けします。





それぞれのポイントをクリックすると、その場所かいわいの写真が出てきます。



【スタート 平野神社鳥居下】





今日は「せんなか」を歩きます。烏丸通りと丸太町通りとの交差点を「烏丸丸太町」という具合に、京都では所在地をストリートで確認しますが、「せんなか」は千本通りと中立売通りとが交差するあたりを指します。今日はここを中心に直径一キロメートル内外を少し歩いてみようと思っています。ちょうど中心点のあたりにはかつて走っていた市電の駅があります。


千本通りはかつて朱雀の大通りでした。平安京の中心の通りになります。その後の脱=平安京、豊臣秀吉による城下町化や江戸の街区形成、そして近代化の過程の中で千本通りはむしろ市街地の外縁に位置するようになりました。ところが、続く近代化の市街地化の波が千本通りを超えてどんどん西に行くに従って、市街地の中では主軸を形成する街路になるのです。これが縦の通りです。一方横の通り。なぜ中立売通りかというと、ここを中心としたエリアがいわゆる「西陣」になるからです。近世以来の地場産業の中心、工業地区に当たる場所です。その中でひとつ中心点をとるならば、ということで「せんなか」を西陣のへそとして考えています。


現在では四角く区切られたところに平野神社がありますが、ここが出発点です。京都は比較的東西が分かりやすいんですが、平野神社の鳥居は東を向いていますよね。神道のことはあまり詳しくないのですが、おそらく皇居、御所に向かっています。今日西大路側から来られた方もいると思いますが、西大路通りは実は新しい通りです。近代に入ってからの土地区画整理事業に伴う都市計画道路であるが故に、神社の向こう側はあまり通り道が無かったところなんです。西大路を通すのに伴ってできた入り口がありますが、もともとはなかった。


ところで、平野神社は桜で有名なところです。江戸時代中期 ―後期といったほうがいいかな― 以降いくつかの文献で現れてくるようになるんですが、ここが一番の桜の名称として知られるようになったのは明治20年以降と言われています。大正時代にはいろいろな保存活動があって、22種類くらいの桜が植え付けられていた。そういった意味では比較的新しい花見名所です。


それから、この辺りは市街地からかなり離れるんですが、結構「いわく」付きの場所なんです。向こうには観光客だらけの北野天満宮がありますね。それこそ受験生にはじまり梅見の客、色々なお客さんが集まっていると思うんですが、平野神社の鳥居から北野天満宮に至るこの通りは北野天満宮から見れば裏の通りにあたっています。でも平野神社から見たら表参道です。一方から見たら裏、一方から見たら表ということで、非常に両義性を持った通りだと言えます。じゃあその「いわく」とは何か? 私が書いた『京の花街ものがたり』の中でもひとつの節を与えていますが、いくつか面白いことが言われています。ひとつはこの平野神社の北側。地図で見ると平野宮北町という場所にはかつて口寄せ巫女がいた。霊を召還して自分に乗り移らせ、現世を生きる人とあの世にいる人との媒介になる人のことです。そして生きている間に聞けなかったことを聞くわけですね。そうした人たちが、言葉は悪いですが「春をひさぐ」ような商売をしていた。明治、大正くらいまでかな、結構この辺りまで来ていて、客を引いていた。こういう記録を1937年に田中緑紅という人が書いています。このように、この界隈は「聖なる空間」とセクシャリティという意味での「性なる空間」とが混じるような場所なんです。北野天満宮の向こう側には花街として京都ではよく知られた上七軒という場所があります。歴史を掘り起こしてみると、意外とそういう陰薇な雰囲気をたたえる場所だった、ということを頭の片隅に置いておいてください。



【2 紙屋川付近】







ここは紙屋川と言って、かなり深い川です。ここはそれほど大したところではないと感じられるかもしれませんが、江戸時代の文人や京都に訪れた文人たちが、必ずここを歩いて平野神社や北野天満宮へ参詣しているんですね。




例えば本居宣長なんかは京都時代かなり遊び好きだったそうです。はめを外さない程度に、ですがね。いろんなところに行っています。彼がここに来たとき、にわか雨に降られて足止めを食っている。この橋のたもとの向こう側だと思うんですが、立派なお宅があります。そのお茶屋さん ―二軒茶屋だったと思うんですが― でアユだかなんだかをつまみに酒を飲みながら、雨が過ぎるのを待った、と。彼の周りにはいわゆる芸妓さんたちがいて、三味線をじゃんじゃかさせて、気分よく飲んでるお客さんがいて、彼は「まあ艶かしいことよ」と言っています。今この殺風景からはなかなか想像がつかないのですが。




東海道中膝栗毛の「弥次喜多」も、北野さんから平野さんに向かう途中にここに立ち寄って、女中さんにいつものごとく冗談とも本音ともつかないことを言いながら一杯やっている。ちょっと掘り下げてみるとなかなか面白い場所なんですね。僕が今一番追っている謎なんですが、「席貸」という独特の旅館が京都にはありました。芸妓を呼んで遊ぶお茶屋さんってのは、「貸席」。これををひっくり返した名前の不思議な旅館が京都にはあるんです。夏目漱石も谷崎潤一郎も、有名どころの作家はみんな泊まっているし、芸妓さん呼んで遊んだりしてます。いろいろなところにあったんですが、いまではその存在はほとんどなくなってしまっている。この立派なお宅は、もしかしたらその名残かもしれません。こんな奇麗なところほとんどない。二階も広いですし、小部屋になっていますし、ちょっと怪しくて面白いところですね。



【3 御土居】



これは「御土居」といって、秀吉が京都の街を城下町化するときにものすごく高い土盛りをしてぐるりと市街地を囲んだんです。ただ、この目的がよく分からない。この技法は当時の築城や城下町建設にあったわけではなく、実際かなり珍しいんです。その残骸。


なかなかすごいでしょ? 秀吉はなかなかすごい。明治くらいの地図を見るとこのふくらみが北野の方までものの見事に続いているのが分かる。ぐるりと京都を囲んでいたと言われてるんですが、その地図を見ると下の方は怪しい。西の方だと鴨川のあたりでちょうど切り崩されてしまっているんですが。堀じゃなくて、土盛りをして取り囲む。紙屋川や鴨川の水害を避けるためと言われたりするんでしょうけど、分からない。




このあたりは町家を潰してできているから、建物が少しセットバックしているのが分かります。こっちは道路まで出ているのに、一番向こうは引いている。町家の枠組みを使いながらセットバックしてるのかなとも思います。いずれにしても切り崩して出来た土地がこうなっていて、僕がはじめて来たときなんかは機織りの音がまだしてましたね。西陣の外れというか、まだ産業が根付いていたことが分かる。まあこういう場所があった、ということでした。



【4 北野天満宮】



やっぱり観光客は多いのですが、我々は傍へ傍へと行きます。成就棒や宿房坊からの寄進がありますね。宿坊房がいくつかあったんだろう、と思うんですが、あまり研究がないんでよく分からないんです。僕は花街を研究していますが、東京なんかへいくと、京都と違って、ほとんどなくなってます。ただ、かつてのお茶屋さんがまったくなくなっているところでも、その近くの神社へ行くと灯籠にかつてのお茶屋さんや料亭の名前があったりする。当時の記憶がこういうところにかろうじて残っていることもままあります。僕は信心深い方じゃないので参拝にはあまり行ったことなかったんですが、これに気づいてから土着の神には敬意を払おうということで見に行くようになりました。まあでも何を見ているかというと、こういうところばっかりを見てるんですけどね。



【5 上七軒入口】



1946年の米軍がとった空中写真に、S31年のお茶屋の分布を色づけした資料があります。写真自体は1946年のものですが、赤く塗ってあるお茶屋さん自体はS31年のものです。これを見ると、ここがメインの道路になっていることがわかると思います。今出川通りからぐっと伸びているこの通りの両側にお茶屋さんができた。これが上七軒の空間特性です。かつては三十何件ありましたが、今では十軒程度しかありません。




かつてのお茶屋さんの建物をコンバージョンした様々なお店ができていますね。西陣にあった町家カフェの二店舗目もこのあたりに来ました。ちなみに、いつくらいから町家のコンバージョンが始まったかというと、20年くらい前から大きな物件が動き出して、2000年くらいから小さなお店が増えてきました。メディアが取り上げはじめたのが2003年あたりでしょうかね。もちろん飲食店だけじゃなくて小間物屋さんもある。今日歩く西陣は町家が集積しているということで有名で、京都の中でも景観としてそれなりに面白いところです。



【6 上七軒の真ん中】




「中里」っていうお茶屋さんがさっきありましたね。あれは川端康成の『古都』でもちょっと出てきたりする有名なお店です。それから、あそこに「糸仙」っていう中華料理屋さんがありますが、あれは昔お茶屋さんでした。いまはリーズナブルで美味しい料理屋さんです。もうひとつ、大体この辺りはずっとお茶屋だったんですが、石田民三(たみぞう)という戦前から活躍していた映画監督さんがいて、売れずにお茶屋の主人として暮らした、というお店もある。戦後、上七軒の「北野をどり」という春の踊りがあるんですが、それを復活させた張本人が石田さんです。




ちなみに、町家の特徴のひとつに、階段がゆるやかであることがあります。僕も町家に住んでいてとても古い建物ですが、階段急なので昔酔っぱらって落ちたことあります。それを考えると、酔客でも危なくないようにゆるやかになってるのかなと思ったりもします。



【7 上七軒の裏通り】



この通りになるとお茶屋さんはもう全然なくなってしまいますね。
景観法による認定済みのステッカーが貼ってありますね。



【9 今出川通り】




ここの通り、向こうに「北野白梅町駅」っていう嵐電(京福電気鉄道 嵐山本線・北野線)の駅があるんですが、前にはこの辺りまできてました。この建物の向こうあたりにかつての「北野駅」があったんですね。北野に向かってひとつ嵐電が伸び、もうひとつ市電が伸びてきて、というふうに北野天満宮へのアクセシビリティはすごく良かったんです。だからこそ商業集積というか、様々な商業が集中していた。完全に「北野さん」目的ですね。今から行くのが大将軍商店街といって「妖怪ストリート」と呼ばれているところです。妖怪でまちづくりをして全国的に有名になり注目されているところです。



【9' 妖怪ストリート】






妖怪がところどころに出てきます【註:上の写真に見える魚は妖怪ではありません】。「百鬼夜行」にちなんでますね。



【10 平安道場前】






このあたりはさっきとはちょっと違った猥雑さがある。普段だと花屋さんや八百屋さんがあり、その向こうにはバラックのようなものがある。この南側の通りは、向こうの方までいわゆる遊廓があったところです。ここから五番町というところに行きます。水上勉の『五番町夕霧楼』でも有名な場所です。水上勉という作家さんは戦前立命館文学部だったのですが、その後中退。「私にとっての大学は五番町だった」と語っています。それから花村萬月という芥川賞作家がいますが、彼が京都に帰ってきていて、その辺に住んでた、と言われていた。そういう濃い場所です。



【11 五番町入り口】






では五番町へ入っていきます。昭和33年あたりだったら、ここを曲がった瞬間に男性は胸躍ったでしょうね。丸みを帯びたデザインなんかもあって。


【12 報土寺前】






寺が三つ並んでいます。二番目の寺の裏に今では家が建っていますけど、かつては全部が娼家でした。娼家というのは遊女がいるところですね。この寺はいわゆる「投げ込み寺」と呼ばれていて、亡くなった方々が投げ込まれていたらしいです。



【13 四番町1】






ここから素敵な建物が並びますよ。




【14 四番町2】






かつてここにカフェー調のタイルを張り巡らしたお店がありました。いろんな人がその建物を見、水上勉もそれについて書くことになるという、そういう象徴的な建物が10年前まではあった。いつかもうなくなってしまいました。


最初はびっくりしてしまっていたんですが、ここ10年間のうちにこういうマンションが出来てすっかり変わってしまった。ここも昔は遊廓だったと思います。花村さんが住んでいたところもこのあたりだったんじゃないかな。



【15 千本日活前】






ここ昔から変わらず料金は500円なんですよ。



【16 六番町】






ここ、半年前まで1億6千万から2億くらいで売られてました。部屋数は11。もったいないな、とは思ってたんだけどさすがにそんなお金ないので、どうしようもなく……




ところでこれ、道が急に広くなってますよね。五番地町の入るところは大体、広い通りから入ってくるところはキュッと狭くなっています。そこからひゅっと開ける。千本日活に入るところもそうなってます。どういうわけか分からないんですが、これはすごく面白いですね。



【17 元千本座前】






ちょっとした違和感があると思います。通りにぐるりと囲まれているコンビニ。なぜこうなっているのか分かりますか? 実はこのコンビニ、元々は映画館だったんです。そもそも千本は映画の街だった。なかでもここは「千本座」という一番有名なところで、その四方を囲むように飲み屋が出来た。映画はかつてはやっぱり歓楽街と強く結びついていて、今のシネコンのようなクリーンな空間ではなくて、幾分猥雑さをたたえるような場所でした。


その後映画が斜陽産業になり、この映画館も閉まり、コンビニが入った。それほど大きなスペースを取る必要はないから、「コの字型」というか、不思議な空間が生まれてしまったんですね。



【18 元映画館】






行政が意図しない都市計画がどんどん進行して、商業地としての性格がどんどん脱商業地化している。年々変わって行くんですが、看板が変わったりして、まちづくりの試みも進んでます。面白いところですね。


見ての通り、ここが一番の中心地でした。かなり入り組んでます。実はこれ両側ひとつで映画館だったんですよ。映画館を潰して住宅が出来ているんですね。もともとは成人映画館だったのですがうまく行かずに潰れてしまった。営業者は続けてやりたかったんだけど、土地の所有者が追い出しをかけて、結局なくなり、今となっては新しい住宅が建っている。このようにして土地の記憶は、消えていくというと変ですが、外から見ただけでは分からなくなっていくわけです。ただ、ドラマの撮影をよくこの辺りでしてるんですけどね。



【19 元長屋】






この界隈は元々すごい低層の長屋地区だったんです。そこにちょっと名残があるような長屋がずらっと建っていたところを、おそらく10年以上の時間をかけて立ち退きさせて空いたところから全部潰した。最近では子供の声も響くようになりましたけど、まちの性格は随分と変わりましたね。それにともなって新しくできた道なんかもあります。これはいわゆる「路地」です。後ろに裏長屋というのが立ち並んでいますね。西陣ではよく見る風景です。ほとんどが借家です。



【19 ゴール間近】






だいたいこれくらいで時間になりましたね。「せんなか」からくるっと回るようにして歩いてきました。対角に位置している五番地や西陣京極といったところ。非常に個性ある街ですが、バスなんかに乗ってると意外と気づかずに過ごしてしまったり、外からは全然わからないと思うんですね。「西陣」と一口に言っていても、いろんな顔があって、織屋建ての町家がずらっと並んでいるところもあったんですが、歴史的に見ると顔の違う風景がひとところににギュッと入っているわけです。



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◉加藤政洋さんに少しお話を聞きました
町家ショップ&カフェ陵綺殿」にて





—なぜ「ヘテロトポグラフィ」というタイトルにされたのですか?


このタイトルについてなんですが、ミシェル・フーコーという哲学者が「ヘテロトポロジー」ということを言っています。今回はそれをもじって「ヘテロトポグラフィ」と言ってみました。「隣接しながらも性格を異にする」(ヘテロ)、異質の場所(トポス)を「ライティングする」(グラフィ)ことから景観の違いを考えていこう。こういう意図からつけました。

そのとき景観政策という制度的なところはひとつの対立軸として考えやすいんですよ。行政は<京都らしさ>ということを言ってはいるけど、そんなものじゃ切れないものが実際にあるわけです。「没場所化」させない景観の話をしようかなと思っていたんですが、いきなり「ヘテロトポグラフィ」は唐突でしたね(笑)。


―例えば、『場所の力』(ドロレス・ハイデン)といった著作の中でもヘテロトポロジーを場所の持つ力としてとらえようという議論がありますよね。


そうですね。こないだ釜ヶ崎でワークショップをやったときは、昭和30年代くらいの古い写真をものすごいたくさん持ってきたんですが、労働者のおっちゃんたちは全部それを当てていくんです。それをマッピングしていって、新しい歴史地誌史のようなものをしたいなと思いました。参加した人たちは満足していましたね。


―ヘテロトポグラフィを語っていくことに対して、それをかたちに残していく、記憶に残すという点に難しさがあると思います。その点について人文地理学はどうやってアプローチするのでしょう?


テクストが重要ですね。差異化するトポスというものがあって、語られた瞬間、常にすでに差異化される。1750年代から現在までさまざまに語り継がれていますが、そういうものを「ゲニウス・ロキ」と呼んでます。それを際立たせるひとつの手段がテキストです。よくやるやり方としては、「現在は何も無いよね」というところから入って、でも掘り返してみれば平板な記憶の中に、歴史的にドロッとしたものが出てくる。これはいろいろなところにあります。鍵はそれをうまく発見できるかどうかです。それを「場所の系譜学」と言います。接ぎ木されたり、脱臼されたり、そういうアーティキュレーションがある。その中で景観を見てみるというのは、面白い。


―今回の「ヘテロトポグラフィック」な視点が、これまで親しんできた「歴史」とはあまりにも違っていてやや混乱しています。


そうですね。平安的なものがあって、江戸的なところがあって、現代的なところもある。そういうまだら状になっている。ひとつの場所にひとつの時間ではなくて、いくつもの時間が流れているわけです。


―そこに気持ち悪さを感じてしまったんです。


当たってしまったわけですね(笑)


―ただ、都市体験はもともとそのような「当たる」感覚とともにあったのかなと思うんですが。


そう。だから有名な思想家はいつも最初の体験を描きたがるんです。フーコー、ベンヤミンなんかはそれに長けていたんでしょうね。ボードレールも。


―19世紀パリやあのあたりの時代、ヨーロッパの大規模開発は当時の人たちの目にどのように映ったのでしょうね。


視覚的には現在の方が圧倒的だと思いますね。資本投下量も違います。一方で今日見たような「御土居」なんかはマンパワーであれだけのものをつくってしまった、いわば大規模開発ですよ。


―それぞれの時代がそれまでに生きた人たちや彼らがつくったもののの影響を受けざるを得ないわけですね。


規定を受けながら壊していく、創造的なビルトエンバイロメントに関して言えば、「クリエイティブ・ディストラクション」という、つまり創造的に壊していく、という議論がある。一度つくっちゃうと、当たり前だけれど、次の時代を規定する。次の時代はそこに影響を受ける。そのときはよかれと思って資本蓄積をしてつくるけど、次の時代にとっては不十分になってくるということもあるわけです。そういうとき、いかにクリエイティヴに破壊できるのか、というところがポイントになるでしょうね……


(了)



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加藤政洋
1972年信州生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。専門は文化地理学。立命館大学文学部教員。著書に『大阪のスラムと盛り場』(創元社)、『花街』(朝日選書)、『敗戦と赤線』(光文社新書)、『京の花街ものがたり』(角川選書)、『神戸の花街・盛り場考』(神戸新聞総合出版センター)がある。