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7.18.2011

QC3|04 高浜利也インタビュー「地域にとってどのような「余所者」であるか」



「地域にとってどのような「余所者」であるか」
高浜利也インタビュー


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今回インタビューを行った高浜利也さんは版画家として様々な地域に関わりながら制作を行っている。滋賀県椋川にて行われた「Community on the move」には作業補助として私たち(RAD)も関与させていただいた。畳屋に生まれ、職人として育てられ、制作のかたわら大工としても活動を行い、教育者として学生を教え、率い、そして美術というフィールドで作品を残す、こうした様々な側面が分断されることなく自身の活動全体に息づいている。今回は、様々な地域へと関与しながら制作を行うことについてどのように考えられているのかを、制作されているもののあり方を交えながら、うかがった。(2011年5月5日、高浜さんのアトリエにて収録)





前編 「きっちりと「余所者」であり続ける」


―高浜さんは「Community on the move(※リンク先PDF)」と題された作品を制作されています。私たちにとって高浜さんとの出会いのきっかけとなったものでもあるのですが、これはどのようなプロジェクトなのでしょう?


一言で言うと、「Community on the move」は積み木がいろいろな地域を回って行くプロジェクト。僕の仕事は建築的な側面から入っているものが多いんだけど、それがいろんな方向に進んで行く中で生まれてきたものなのね。例えば越後妻有アートトリエンナーレに出展したとき、僕は「家」を作品として(「小出の家」)3ヶ月間そこに寝泊まりしながら制作していたんだけど、作業中に子どもがよってきて、慣れてくると「おっちゃんこれで積み木してもいい?」って端材で遊びはじめた。2ヶ月目くらいからはその友達もやってきて、まあ友達って言っても全校で11人くらいしかいないんだけど、だんだん彼らの遊び場になって、積み木で家をつくり始めたんですよね。1階は自分の作品の空間だったから、子どもがつくった「家」を2階の屋根裏に置いて、いつの間にかそれも作品の一部みたいになってきた。

で、妻有での3ヶ月が終わり、いろいろあってその家の所有権が移って、東京電機大学と共立女子大学の建築系のゼミが授業の中で工事を継続させるということでその後を引き受けた。だから僕らの手から作品が離れて、その地域とのつながりもそこで断たれちゃった。2階に置いていた子どもたちがつくった「家」もそれに伴って撤去されることになったから、じゃあ引き取って次の街に持っていこう、と。その後愛知県立芸術大学で特別講師としてワークショップを頼まれていたので、じゃあその機会に、と思ってそこでもやった。行きがかり上、終わったらその「家々」をまた引き取って、トラックに積んで北海道の根室に行ったりまた別のところへ行ったり…。その結果、地域の人と関わる最初の入り口でそのワークショップをやって、自分の「持ち運べるコミュニティ」を持って行くっていうことを繰り返すようになった。そういうかたちで、大人も子どもも地域の人と一緒に作業して関わっていくプロジェクトができたんです。


―高浜さんは版画家として活動されています(参照)が、自身の肩書きと自身がなされていることとの関係をどう考えていますか?


版画家という肩書きは自分が美術の中にいるときの足がかりとしてあるかな。絵は描いてないから絵描きではないし、版画が一番多いから版画家。一方で昔から大工もやっているんだけど、それも作品のなかに入ってきている。大工的な木工、というか、インスタレーションみたいなことをやっているからね。それを最終的に版画や平面に落とし込んでいる。

ただ、最終的に版画という形態を取ることが多いんだけど、制作自体は例えばどこかの地域に出かけて行って、風景なりなんなりを自分でつくるところからはじめる。風景画家はどこかに出かけて行ってそこにある風景を描くけど、僕の場合は描く対象としての風景をまずつくりたい。それもその地域の人と関わりながら風景をつくりたい。そこでのイメージなりエピソードなりを可視化しながらね。とはいえ、最終的には版画にしているから版画家でいいんじゃないかって思っているけど。


―それは版画をはじめられた当初からそう考えられていたのですか?


僕は常に基礎を美術に置きたいと思ってる。ある程度の形式をもった美術をつくりたいと思っていて、もともとはホワイトキューブからスタートしているのね。大学では油絵専攻に入ったんだけど、描いてもリアリティを持てなかった。大学3年のときに版画と出会って、100%思い通りにならないことに面白みを感じたというところがある。素材に対して版画の持ついい加減さというか軽さというか。油絵だったら描いて美術館にかざってなんぼ、ギャラリーにかざってなんぼという美術の世界だけで成り立つものだけど、版画はどちらかというともともとメディアだった。例えば浮世絵なら役者絵が思い浮かぶけど、これはブロマイド。役者のファンが「キャー」ってなるようなね。木版画だったら青表紙、黄表紙といったもの。今でいう「女性自身」みたいないわゆるゴシップ雑誌かな。銅版画だったら中世ヨーロッパの図鑑の挿絵とかね。あと貴族の鎧甲冑の金属を加工する技術もある。こうやって版画はいろいろな形で世の中と密接に関わっていた。だから美術の中で版画の存在感は当時はさほどなかったと言っていいと思う。それが浮世絵としてヨーロッパに渡り、評価されて逆輸入されたから、いまとしては美術のいちジャンルとして成立しているけど。

いろんなところへ行って、見たりつくったり可視化したりというとき、油絵で描くと美術館にしか置けない。少なくとも美術の範疇に入ってしまう。でも自分がやりたいのは、社会の中で風景をつくりながら地域に関わって、ジャーナリズムというほど大げさじゃないけど、社会の中で見たものを自分なりに記録するということ。もちろんアーティストとしては作品を美術としてフォーマルなものにしたいという思いもあるけど、社会と常につながっていたいという思いもある。自分が社会に見たものがまた社会にかえっていくというかね。複製が可能だったり、単価が安いというすごくプラクティカルな理由もあるけど、先に言った版画の持つ軽やかさや希薄さ、言ってみれば美術館におさまらずにそのへんにほっぽっておいてもいい、そういう版画の性質が自分がやろうとしてることと合致してる。だから版画家という肩書きは嫌じゃないかな。


―「風景をつくる」とは具体的にどのようなことなのでしょうか?


風景をつくる、と言っても、なにか人工的に図面があってものをつくる、いわゆる建築や構築ではないんですよ。全てをコントロールしようとするんじゃなくて、出向いていった地域の中で出会う人によって変化するようなものかな。子どもが関わってくれる、ということもそうだけど、予期できない要素がすごく大事になる。それは実は版画のプロセスと似ているんですよ。自分の思い通りにならない、不自由さの快楽じゃないけど、すべてコントロールできないがゆえの面白さがある。風景を「つくる」にしても、全部自分でやるんじゃなくて、人にやってもらう。ワークショップはそのいい例だと思う。

つまりそれはなりゆきだったり、そこにいる人との関わりによる偶然性が入ってくるということ。少し話した通り、版画自体が偶然性の強いものであって、焼き物のように半か丁か、という賭けみたいなところがある。刷ったときに左右逆転するしね。これが油絵ならかなりの程度コントロールできるし、平面のドローイングならある線はそのまま線として作品になるけど、版画は銅に描いて、腐食させて、刷ってというプロセスの中で絵が左右反転したり思った以上に線が濃くなったり薄くなったり思いがけない傷が入ったり、そういう他者性というか不自由さがある。何か委ねる部分が多くて、そのへんの面白さがあるかな。


―「Community on the move」は自身の仕事においてどのような位置を担っているのでしょう?


どこであれ、制作する前には住人の前で説明会みたいなことをするんですよ。こういうことしますよ、と。プレゼンみたいなものです。区長さん、地元の人がいて、公民館でみんなで酒飲んで、って。そういうのもいいんですけど、一方的に喋るよりは身体を動かす、身体性が重要だなと最近思っています。一緒に作業するというのが一番いいかな。だから地域に入るときはワークショップがいい。考えてみると、地域は一緒に身体を動かした恊働の体験によってむすびつくと思うんです。田んぼ作業したりとかね。もう少し言うと、コミュニティ自体が何かに対して一緒に作業するという性格を持ってると思う。例えば自然災害に対して、あるいは今回の震災も然りだろうね。なにか自然のすごい力に対して自分たちの力をあわせるしかない、というところでコミュニティができる。そういうのもふまえて、ある程度の恊働体験としてワークショップは有効なものとしてある。何かやるときに机の上だけ、車座になって喋るだけじゃなくて、一緒に汗をかくという感覚でやっていくのがいいなと個人的には思っていますね。

そういうわけで、「Community on the move」というワークショップのプロジェクトは、当初は妻有でやったような建築と関わりのある作品をつくるプロジェクトから派生したものなんだけど、個人的にも、僕の制作にとっても、それがだんだん重要になってきた。積み木でできたものがいろんなところへ行くたびに、いろんな人との関わりによって増えていくというところがあって。僕が地域へと関わるときに最初にやっていることであり、行く先々でやっているから、僕がいろんなところへ行っていることを示してくれているし。重要なのは、つくってもらって、ストックして、次のところへ持っていくというところ。それを繰り返す中で「Community on the move」はますます重要になっているし、僕の平面の仕事へも影響を与えていると思う。


―いちプロジェクトでありながら、高浜さんの仕事総体にとっても象徴的なものであると。


そうそう。素材の面で言っても椋川では杉、越後妻有では古い家を取り壊したときの廃材、根室にも行っているんだけど、そのときは漁船の廃材、あるいは小学校で使われた机を切った材、愛知県立芸術大学では椅子を切った材、などなど、そういう記憶が積み木の中に入っている。美術館だったら展示用の材料とかね。そういう記憶の断片みたいなものになっている。最終的にはそれをつなげていきたい。積み木をつなげて本当の家にするとかね。場所とか人のひとつひとつの記憶や手技が入ったものを自分でつなげていって、家か壁かわからないけど、最終的には巨大な構築物をつくりたい。それぞれは関わりがないんだけど、自分が関与したという意味で関係がある、すごくアナログ的に集めたネットワークみたいなもの。そういう労力がかかってるネットワークをリアルでやった構築物を、彫刻としてあるいは別のものとしてつくってもいいかなと思ってる。



community on the move/椋川


―やや抽象的な質問になりますが、高浜さんにとって「地域」とはどのようなものとしてありますか?


地域、というかコミュニティというと自分の生まれたところかな。地縁血縁の人がいて、知人友人がいて、同じ時間と記憶を共有しているというイメージ。日本だと高校まで地元にいて、大学から変わるということが多いじゃないですか。だから、誰がどこに住んでいて、親が誰かっていうのが分かるというのが、僕にとっての地域。僕の場合は大学のときに東京に出てきて、最初板橋区に住んで、それから小平市に住んで、足立区に移って、いま葛飾区に住んでいる。でもそのなかで地域を意識したことはあまりない。活動の場所は別だから地域の人との関わりもあまり多くない。だから帰属意識があまりない。子どもができた後は幼稚園に行ったりするからそっちのつながりが多少あるけど、いまでも地域というかコミュニティにいるという意識は希薄ですね。

一方で、例えば越後妻有アートトリエンナーレのように「地域に入っていく」芸術祭がある。僕が参加したときはそういう枠組みを既に知っていて、そのときあれこれ考えながらその場所に3ヶ月間住み込んで地域の人と恊働したりした。その3ヶ間で地域の人とも仲良くなってお祭り騒ぎしたし、今でも行き来はあるんだけど、自分がその地域に入るってことはできないことを思った。あくまでも余所者だからね。異邦人である限りは帰属はできないと思ってます。やっぱり住まないと、というか、居着かないといけない。地域で何かしようとしたら当事者にならないといけないと思う。

だから、地域の中に入っていって活性化を担おうという使命感ではなくて、ある程度の距離感を持って「たまに来る人でいいんじゃないか?」ということを最近思ってるんですよ。スタンスの取り方として、住み込んで何かする、ということではなくて「短い期間、毎年行く」ということをいま北海道の根室でしてます。最初「3年で終わる」という話が延長して5年にとどんどん長くなっているんだけど、見せ物小屋的に「夏になったら来るヘンなおっちゃんら」として、子どもたちとワークショップして、期間中に差し支えない限りで自分たちの作品を残していくような形で関わっていこう、と。そういう意味では距離感がつかめてきました。そこに同化したりその地域の力になるということじゃなくてね。養蜂家がたまに回ってくるじゃないけど、そういうかんじ。僕が小さいころ、鯉取りのおじさんというのがいて、毎年夏になると1週間ほどどこからともなくやってきて、川に潜って鯉とかなまずをとって回るみたいなことをしていたんですけど、子どもながらにすごいなと思っていた。そういう子どもの記憶のなかに残る存在でいいんじゃないかな。そこから地域に入って行けばいいかなと。


―毎年短くても行くということできっちりと余所者であり続けるということでしょうか?


そう。余所者として入って、余所者としてあり続けたほうが僕にとってリアリティがあるというかね。「あなたたちのこと、僕は分かりますよ」っていうのは嘘くさい。人口が減って、限界集落になって、それを僕らの作品でなんとかしよう、っていうのはやっぱり嘘くさいと思う。できるわけないと思うようになってきた。地域にとっての救世主になりたいとか、活性化の起爆剤になりたいとか、その端緒になる、っていうのよりも、自分がやりたいことを追求したい、アーティストとしてのエゴをつきつめたいという気持ちが強い。その中で僕は直接的には何もできないけど、夜店の見世物小屋と同じような存在として、地域の人に来てもらうほうがいい、と。最初の頃は、疲弊して行く地域の問題に対してアートに何かできるということを考えていたんですよ。そして確かに何かしらできるとは思うんです。でもそれは自分らの役割じゃないし、僕らの力では不十分やなと分かってきて。それでもあきらめるわけじゃなくて、自分たちがやっていることが結果的に地域へと影響を与えていったらいいなと思ってます。

例えば、「落石計画」というプロジェクトを行っている根室は霧がすごいんですよ。次の年に行くと鉄の部分が錆びてるくらい。版画というのは銅を腐食させて絵をつくるからね。物であれば大抵は腐って行く方向にあるけれど、銅版は化学的作用でその時間をぐっと濃縮させて絵をつくっていく。それを霧のすごい根室でつくるということをしてみたい。石膏のキューブでつくった物体を腐らせてどうなっていくか、10年20年先が作品ですよ、と言いたい。だから僕にとって大事なことは、「地域の記憶をすくいとる」ということよりも、もっと直接的にその霧に包まれたい、ということなのかもしれない。そこの霧は塩分を含んでいるから、物が錆びるのも腐るのも早い。その霧に作品を包ませたい。10年20年先朽ち果てていく姿を作品として見せたい。そういう自分たちのエゴがある。とはいえもちろん人と関わらず一人でコツコツというわけにはいかなくて、そこの周りに住んでいる人も自然に関わってきてくれるだろうけどね。


―そういう意味では版画の制作サイクルと、短期間毎年行くというサイクルはリンクしていますね。


そう。そして個人的な「毎年夏が来ると制作する」という制作のリズムもできている。僕の場合、自分がやっているギャラリーのようなホワイトキューブで版画を見せるのと、こういうサイトで見せるということの違いをつくるために行っているようなところもある。その結果として、子どもたちと関わったり、地元の漁師さんと関わったりしてる。もちろん理想としてはお客さんがたくさん来て、その地域に何らかの経済的効果があればいい。そういう方向は一応目指してる。地域にとってという意味で言うと、そこで使っている建物がリンドバーグ号と関わりがあるような重要なもので有名なんだけど、いつの間にかうち捨てられていて… そこに僕らが行って、新聞に載ったりすることで地域の人にとっても発見があるだろうとは思う。「そういえば小さい頃遊んだな」とか、「このあたりで生まれたな」とか、記憶がある人は遠くからでも来てくれる。そういうのは二次的にあるかもしれない。


ただ具体的なところでいうと、若い人を連れて行く、ということはひとつ僕らにできることとしてある。根室へは僕とパートナーが関わっている大学の学生を毎年20人くらい連れて行くんですよ。誰かが卒業するとまた新しい人が行って、という具合にね。僕らは連れていくだけで「あとは自分たちで化学反応せいよ」と。そこで居着く子もいるだろうし。行って作品をつくることも大事だし、その完成度も大事だけど、行くことという出来事が大事で、若い子がその後を引き受けてくれるためのきっかけをつくるみたいなことがある。

自分が関わる地域やコミュニティに関して、一言で言うとなると難しいけど、その距離感がだんだん分かって、自分のなかでは基準のようなものができてきた。でもまた違う距離感もできていると思う。越後妻有、根室、滋賀の椋川、愛知などなど、いろんなところでいろんな関わり方ができている。



community on the move/椋川




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高浜利也
1966 兵庫県姫路市生まれ
1990 武蔵野美術大学大学院修士課程修了
1997 長沢アートパーク  アーティスト・イン・レジデンスプログラムにより淡路島に滞在
1998 国際交流基金・ポーラ美術振興財団・日本財団APIアジアフェローシップの
    グラントによりバンコクに滞在(~’00、 ‘05~’06)
2004 文化庁国内研修員 
2011 武蔵野美術大学教授   

< 主な個展 >
1993 日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース / 東京
1994 「新世代への視点’94- 10画廊からの発言」 ギャラリーなつか / 東京
1995 ギャラリーなつか / 東京
1997 ギャラリーなつか / 東京、 柳沢画廊 / 埼玉
1998 ギャラリーAPA / 愛知 
1999 「Bangkok Lotus Project 1998-1999」 
    タイ国立シラパコーン大学ギャラリー / タイ
2000 「Bangkok Lotus Project 1999-2000」 ギャラリーなつか / 東京
2002 「TOKYO HOUSE PROJECT」 ギャラリーなつか / 東京
2005 「移動計画」 ギャラリーなつか、第一生命南ギャラリー / 東京
2008 「補遺 / 小出の家」 ギャラリーなつか / 東京
    「Private and Public」 アートフロントグラフィックス / 東京

< 主なグループ展 >
1994 「現代の版画 1994」 松濤美術館 / 東京
1996 「現代東京版画事情- 伝統と逸脱」 町田市立国際版画美術館 / 東京
1997 「ぶどうの国国際版画ビエンナーレ」 山梨県立美術館 / 山梨
    「現代日本美術の動静- 版 / 写すこと / の試み」 富山県立近代美術館 / 富山
    「SMALL SIZE COLLECTION」 ギャラリーなつか / 東京
1999 「Lines of Sight 生の視線 触覚・軌跡・領域」 武蔵野美術大学 / 東京、
    アルバータ大学 / カナダ、 「北斎の末裔」 Grafikens Hus / スウェーデン
    「日本の版画 1945- 1999 時代の表情- 反表情」 町田市立国際版画美術館 / 東京
2000 「大きい版画と小さな版画」 練馬区立美術館 / 東京、「CONNECT  シラパコーン
    大学版画研究室展」 シラパコーン大学アートギャラリー / タイ
2001 「VOCA 2001ー あたらしい平面の作家たち -」 VOCA奨励賞受賞
    上野の森美術館 / 東京
2002 「eleven&eleven Korea Japan Contemporary Art 2002」 省谷美術館 / 韓国
2003 「井出創太郎『棲家 / その光と闇』 Piacer d’amor bush〈片瀬〉+高浜利也
    Enoshima Project」 旧井出創太郎宅 / 神奈川
2004 「版画を読む- 画層と色層の冒険 -」 文房堂ギャラリー / 東京
    「Sublime Present- 世界の版表現と教育の現場より -」 武蔵野美術大学 / 東京
2005 「現代版画の潮流展」 町田市立国際版画美術館 / 東京、 松本市美術館 / 長野
          「銅版画の地平Ⅲ 現代銅版画の交差路- 浜口陽三と森野真弓・海老塚耕一・
    青木野枝・高浜利也・井出創太郎」 ミュゼ浜口陽三 ヤマサコレクション / 東京
2006 「大地の芸術祭  越後妻有アートトリエンナーレ2006」 十日町市小出集落 / 新潟
    「AICHI-SILPAKORN- 愛知芸大・シラパコーン大学交換交流展 -」
    シラパコーン大学アートセンター / タイ、「VOCAに映し出された現在- いま
    いるところ / いまあるわたし -」 宇都宮美術館 / 栃木
2007 「阿波紙・版画展- 6人のアーティストと版形式- 」 ギャラリーエス / 東京
    「Show Me Thai - みてみ☆タイ- 」 東京都現代美術館 / 東京
    「rooms」 名古屋市民ギャラリー矢田 / 愛知
    「上野タウンアートミュージアム- 伝統と現代-  延承、演経、浸透 / 水、墨、モノ
    クロームの世界」 台東区立旧坂本小学校 / 東京
2008 「落石計画第1期」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「姫路市立美術館開館25周年記念 現代郷土作家展」 姫路市立美術館 / 兵庫
    「落石計画」 日本橋高島屋美術画廊Ⅹ / 東京
    「東京国立博物館・日本大学芸術学部 柳瀬荘アート・教育プロジェクト
             東京国立博物館柳瀬荘 / 埼玉(’10)
2009 「第77回日本版画協会展 招待部門出品」 東京都美術館 / 東京
    「落石計画第2期 Scattered Seeds 残響」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「APIリージョナルプロジェクト- 移動計画 / 椋川」 高島市椋川 / 滋賀
    「リトグラフって何だ- 板津版画工房と作家たち」 調布市文化会館たづくり / 東京
    「自宅から美術館へ 田中恒子コレクション」 和歌山県立近代美術館 / 和歌山
2010 「あいちアートの森」 東栄町旧新城東高校本郷校舎 / 愛知
    「落石計画第3期 版 / 対話空間」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「版・印- 日本版画テーマ展」 国立台湾美術館 / 中華民国

< パブリック・コレクション >
1988 町田市立国際版画美術館 / 東京(’93)
1990 国立台湾美術館 / 中華民国
1991 国立国際美術館 / 大阪
1992 ニューサウスウェールズ州立美術館 / オーストラリア
1998 福光町立福光美術館 / 富山   
1999 タイ国立シラパコーン大学 / タイ
2000 武蔵野美術大学資料図書館 / 東京
2001 第一生命保険株式会社 / 東京
2004 ロサンゼルスカウンティー美術館 / アメリカ
2009 和歌山県立近代美術館 / 和歌山
2010 姫路市立美術館 / 兵庫