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7.11.2011

QC3|04 高浜利也インタビュー「地域にとってどのような「余所者」であるか」





「地域にとってどのような「余所者」であるか」後編
高浜利也インタビュー



前編はこちら


後編 「版画家として、教育者として、「インフラとしての職人」として」


―訪れる先の地域地域で反応や感覚は異なりますか?


地域性はそれぞれにあるんだろうけど、僕にとってはあまり問題じゃない。むしろ地域への自分の関わり方の違いが大きいかな。越後妻有のような場所にアーティストとして招かれていくと、ある程度お膳立てができているし、自分でアーティストと名乗らなくても向こうがそうとらえてくれるところがある。でもそうじゃないときには、例えばタイの少数民族の研究者が住み込んでフィールドワークするじゃないけど、泥臭いこともするし、地域の人と何かを共有することもする。地域によってそれぞれ性格が違う、ということはあるんだろうけど、それよりはむしろ自分のあり方や帰属や状況の方に随分と違いがあると思ってる。

その関わり方の違いに関して言うと、今まで僕はバンコクで足かけ5年住んで、日本に帰ってきて、というように動いていることが多かった。現在住んでいる地域に対する帰属意識がそれほどない、ということは、そういういきさつも影響を与えているかもしれない。根なし草じゃないけど、現在・過去・未来という時制関係なく、生まれた場所もいままで住んだり訪れた場所も並列にある。バンコク、姫路、椋川、根室、越後妻有、足立区、そういうものが時系列じゃなくて全部引き出しの中にあるような。いま住んでるから葛飾区が現在かというとそうじゃない。逆に言えばどこでもドアじゃないけど、いまここにいてもバンコクのことを思っていつでも行けるという気持ちがある。



北海道は根室市落石に残るトーチカの残骸


ただ、一方で最近、いますぐじゃないけど、僕が生まれた姫路という場所で何かやりたいという思いが出てきた。というのも、この春に実家に帰ったとき親父が家業の畳屋をやめるって言い出したのね。機械とか処分して「道具全部ほかすから欲しかったら持っててもええよ」って。自分がものをつくるということを覚えた場所がなくなるから、それをもう一度つくりたいなと思ってるのかもしれない。何かをするなら、古い建物やアトリエをつくるというところからはじめたい。ともあれそういうちょっとしたきっかけもあったりして、自分の生まれた地域に目が向いてきてはいる。

これまでいろんな場所に関わることができているし、それは面白いんだけど、「所詮自分はそこの人間じゃない」という思いが強い。住み着く意志もないし。そういう意味で本当に自分が地域に関わろうと思ったら、うちの田舎しかないなと最近思ってきた。ちなみに「うちの田舎」とは言ったけど、野山があっていわゆる「兎追いし」のような環境じゃないからね。下町のハードな工業地帯で、子どもの頃は公害問題があって、工場のスクラップがあって、鉄板があってというところ。自分が生まれたところで何かを行う、ということは、そこに関わってくれるだろう人は幼なじみだったり昔の連れだったり、地元の人とか自分を知っている人だったりする。だから「こうやりたい」と一から説明しなくてもいいようなところがある一方で、これまでのように「旅人」じゃなくなるということでもある。「しょせんそこの人間じゃないから」というスタンスがなくなって「ここでずっと続けて行く」ということになると思う。


―これからのプランはどのようなものになりますか?


どうなるかは分からないな。自分が何をしたいのかに関しても、それを問われても全体的にはつかめない。感覚として断片的、生き方としてつじつまあわせで、パーツパーツでできているから全体を体系化できていないんですよ。大工として家を建てて、版画をつくって、先生もして、とある地域で学者さんらとつきあって…… 僕自身の活動の振れ幅が尋常じゃないというか、インテリなのか労働者なのか分からない。いろんな人と付き合っているし、言ってみれば時間によって見えている社会が違う。夜は労働者として指示されて、朝は先生として学生に指示して(笑)。夕方から村に入って、学者さんと話して。そういう生活は無理があるといえば無理があるんだけど、時間によって社会階層の見え方が変わるというのは自分の活動に影響を与えていると思う。

そしてこれは自分の問題だけじゃなくて、職業とか、貧富の差とか、様々なレイヤーが地域にはあると思う。それを行き来しつつというのは口で言う程優しくはない。その地特有の歴史があったり、生なましい話やタブーがある。それは外からは分からなくて、地域の人と話しているうちに「そうだったのか」とか「これは話したらいかんかったな」と思ったりする。いわゆる表面的なところと、裏での「実は……」という部分とがある、そういうのも地域だろうね。


―それは裏表というよりは、ある切れ目のようなものとして見えてきますね。


そう。言ってみれば断絶のようなものがある気がする。今回の災害でも然りだけど、この種の断絶はいままでもなくはなかった。それまで焼き場だったところが住宅街になっていたり、沼地だったところに人が住んでいたり、そういう記憶の断絶みたいなものが地域にはある。だからずっと続いているようで実は続いていない。でも続いていないようで実は続いている。よそから来た人とそうじゃない人との間に断絶があったりね。


―地域の人と話す中で「実はこういう問題があって…」という発見も多いのではないですか?


越後妻有でも2、30回くらい事前に地域の人と話したりリサーチしたりしたけど、あと一人しか住民がいない集落や、村として成立していない村がやっぱりある。限界集落どころか…… あと一人しかいない。現実的に考えてみたら、あと一人しか住民がいない集落は間違いなく成立しなくなる。少なくともこれまでとは同じようにはあり得ない。もう一度集約してコンパクトな社会をつくらないとどうにもならない。技術論から言うと、毎年夏になると盆踊りにたくさん人が訪れて云々といういわば復元的な地域活性化は無理だろうね。人口的な観点から言うと移民を受け入れるしかない。ただそれは政治家の仕事であってアーティストの仕事じゃない。一方で、越後妻有アート・トリエンナーレのようにアート・ツーリズムを整備して、お客さんがそこでお金を落とすというシステムがつくられている例もある。もちろん批判もあるだろうけど、地域にとっては実際に意味があると思う。


―ただそこで、高浜さんは「短い期間毎年行く」というまた別のシステムを自身で進められることになったわけですね。


越後妻有のような関わり方は、最初はアーティストにとってシステムとしてしっかりしていて、マニュアルがあって分かりやすい。ただ、僕らとしては「その地ならでは」のサイトスペシフィックな作品をつくろうとしてるんだけど、毎年そこに入る、毎回参加するというのは制度としてホワイトキューブみたいなんですよ。美術館というホワイトキューブではない、いわば「中立的」ではないところで作品を展示することを目指してサイトスペシフィックなところに来るはずなんだけど…… それがシステム化されて、その地域に入って住民説明をして、そうすると事務局がある程度準備をしておいてくれるから、サイトを探して、材料持ってきて、地元の記憶をすくいとって…… という具合に制作がマニュアル化されて決まってきちゃう。そう考えたときに自分の中で「これは違うな」と思いはじめた。だから次にやるときは一からやらないとな、と思った。例えば北海道の根室でやっているプロジェクトでは、予算確保から何からという裏方の仕事までしないといけないなと思ってます。


―最後になりますが、高浜さんにとって建築的な経験、具体的には大工としての経験はどのようなものとしてありますか?


大工というか、職人という観点から言うと、職人は自分が持つ技術を社会のなかで生かすインフラ的な存在だと思ってる。ちょっと不思議に聞こえるかもしれないけど、「職人というインフラ」があると思う。それを次の世代に教えていくために弟子に教える。自分のコピーをつくっていく。版画で自分の作品を複数刷るというイメージにも近いかな。


―「インフラとしての職人」という考え方は面白いですね。


ある意味ソフトであると同時にハードというか。職人個々の働きを見るとソフトの力なんだけど、世の中に職人が存在している、という状態はハードというか、インフラとしてとらえることができるんじゃないかな。あまりうまく言えないけれど。

僕が職人というあり方に惹かれるのは、父親が畳屋だったからで、中学くらいまでそのための勉強をしていたというシンプルな理由から。職人の仕事とは何か、ということを身体で覚えてるんです。それもあって、油絵じゃなく版画というある意味触媒になるほうが落ち着きがいいというか落としどころとしていい。若い人と一緒に行って、彼らにも自分がその場所で何を考えていったか、何をやったのかということを伝えて、彼らがさらにそれを引き継いでくれる、そういう面白さはあるかな。


―それがご自身の制作や地域への関わり方にも影響を与えている。


そうそう。そこでめぐりあった子どもたちに、何十年後か先に「そういえば子どもの頃ヘンなおじさんがきていたな」と。そうやって仕込んでおくとか、学生を連れて行くことによってまた別の仕込み方をしたりね。大学でできる教育だけが教育じゃない。それを最近痛感しています。実際彼らを現場へと連れて行って、「インフラとしての職人」ということを実際の場所で見せることができる。そうするとそれに伴ってできることも多くなる。そして大学に戻ったとき、こういうところが違う、アカデミックと社会の出来事やそこで求められていることとではこれだけ違う、ということが言える。僕にとって大工も先生もある意味等価性がある。先生をやっているけど、大工をやめたわけじゃない。その逆も然り。

「地域活性化」という枠組みを自らの活動に掲げてしまうと、行きがかり上その目的を達成しないといけない。これまで話してきた通り、僕はそういう地域との関わり方は無理だと思ってる。版画家としてだったり、大学の先生としてだったり、見せ物小屋的なアトラクションとしてだったり、インフラとしての職人としてだったり、いろんな顔を持って、いろんな方法論でもって、パーマネントではなくテンポラリーに更新していくようなことができたらと思ってます。(了)




高浜さんアトリエ周辺。中央の道路を境に、その向こう側には新興住宅地が広がる



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高浜利也
1966 兵庫県姫路市生まれ
1990 武蔵野美術大学大学院修士課程修了
1997 長沢アートパーク  アーティスト・イン・レジデンスプログラムにより淡路島に滞在
1998 国際交流基金・ポーラ美術振興財団・日本財団APIアジアフェローシップの
    グラントによりバンコクに滞在(~’00、 ‘05~’06)
2004 文化庁国内研修員 
2011 武蔵野美術大学教授   


< 主な個展 >
1993 日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース / 東京
1994 「新世代への視点’94- 10画廊からの発言」 ギャラリーなつか / 東京
1995 ギャラリーなつか / 東京
1997 ギャラリーなつか / 東京、 柳沢画廊 / 埼玉
1998 ギャラリーAPA / 愛知 
1999 「Bangkok Lotus Project 1998-1999」 
    タイ国立シラパコーン大学ギャラリー / タイ
2000 「Bangkok Lotus Project 1999-2000」 ギャラリーなつか / 東京
2002 「TOKYO HOUSE PROJECT」 ギャラリーなつか / 東京
2005 「移動計画」 ギャラリーなつか、第一生命南ギャラリー / 東京
2008 「補遺 / 小出の家」 ギャラリーなつか / 東京
    「Private and Public」 アートフロントグラフィックス / 東京


< 主なグループ展 >
1994 「現代の版画 1994」 松濤美術館 / 東京
1996 「現代東京版画事情- 伝統と逸脱」 町田市立国際版画美術館 / 東京
1997 「ぶどうの国国際版画ビエンナーレ」 山梨県立美術館 / 山梨
    「現代日本美術の動静- 版 / 写すこと / の試み」 富山県立近代美術館 / 富山
    「SMALL SIZE COLLECTION」 ギャラリーなつか / 東京
1999 「Lines of Sight 生の視線 触覚・軌跡・領域」 武蔵野美術大学 / 東京、
    アルバータ大学 / カナダ、 「北斎の末裔」 Grafikens Hus / スウェーデン
    「日本の版画 1945- 1999 時代の表情- 反表情」 町田市立国際版画美術館 / 東京
2000 「大きい版画と小さな版画」 練馬区立美術館 / 東京、「CONNECT  シラパコーン
    大学版画研究室展」 シラパコーン大学アートギャラリー / タイ
2001 「VOCA 2001ー あたらしい平面の作家たち -」 VOCA奨励賞受賞
    上野の森美術館 / 東京
2002 「eleven&eleven Korea Japan Contemporary Art 2002」 省谷美術館 / 韓国
2003 「井出創太郎『棲家 / その光と闇』 Piacer d’amor bush〈片瀬〉+高浜利也
    Enoshima Project」 旧井出創太郎宅 / 神奈川
2004 「版画を読む- 画層と色層の冒険 -」 文房堂ギャラリー / 東京
    「Sublime Present- 世界の版表現と教育の現場より -」 武蔵野美術大学 / 東京
2005 「現代版画の潮流展」 町田市立国際版画美術館 / 東京、 松本市美術館 / 長野
          「銅版画の地平Ⅲ 現代銅版画の交差路- 浜口陽三と森野真弓・海老塚耕一・
    青木野枝・高浜利也・井出創太郎」 ミュゼ浜口陽三 ヤマサコレクション / 東京
2006 「大地の芸術祭  越後妻有アートトリエンナーレ2006」 十日町市小出集落 / 新潟
    「AICHI-SILPAKORN- 愛知芸大・シラパコーン大学交換交流展 -」
    シラパコーン大学アートセンター / タイ、「VOCAに映し出された現在- いま
    いるところ / いまあるわたし -」 宇都宮美術館 / 栃木
2007 「阿波紙・版画展- 6人のアーティストと版形式- 」 ギャラリーエス / 東京
    「Show Me Thai - みてみ☆タイ- 」 東京都現代美術館 / 東京
    「rooms」 名古屋市民ギャラリー矢田 / 愛知
    「上野タウンアートミュージアム- 伝統と現代-  延承、演経、浸透 / 水、墨、モノ
    クロームの世界」 台東区立旧坂本小学校 / 東京
2008 「落石計画第1期」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「姫路市立美術館開館25周年記念 現代郷土作家展」 姫路市立美術館 / 兵庫
    「落石計画」 日本橋高島屋美術画廊Ⅹ / 東京
    「東京国立博物館・日本大学芸術学部 柳瀬荘アート・教育プロジェクト
             東京国立博物館柳瀬荘 / 埼玉(’10)
2009 「第77回日本版画協会展 招待部門出品」 東京都美術館 / 東京
    「落石計画第2期 Scattered Seeds 残響」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「APIリージョナルプロジェクト- 移動計画 / 椋川」 高島市椋川 / 滋賀
    「リトグラフって何だ- 板津版画工房と作家たち」 調布市文化会館たづくり / 東京
    「自宅から美術館へ 田中恒子コレクション」 和歌山県立近代美術館 / 和歌山
2010 「あいちアートの森」 東栄町旧新城東高校本郷校舎 / 愛知
    「落石計画第3期 版 / 対話空間」 根室市旧落石無線局 / 北海道
    「版・印- 日本版画テーマ展」 国立台湾美術館 / 中華民国


< パブリック・コレクション >
1988 町田市立国際版画美術館 / 東京(’93)
1990 国立台湾美術館 / 中華民国
1991 国立国際美術館 / 大阪
1992 ニューサウスウェールズ州立美術館 / オーストラリア
1998 福光町立福光美術館 / 富山   
1999 タイ国立シラパコーン大学 / タイ
2000 武蔵野美術大学資料図書館 / 東京
2001 第一生命保険株式会社 / 東京
2004 ロサンゼルスカウンティー美術館 / アメリカ
2009 和歌山県立近代美術館 / 和歌山
2010 姫路市立美術館 / 兵庫