2012.11|「I Love Kyoto Kaikan」運営人河本順子さんインタビュー公開中

11.28.2012

QC3|11 河本順子「京都会館建替え問題から見る「京都」」



2/5 <分かり合えない、ということを前提にする>
3/5 <市からの摘録を追い抜いて議事録を公開する> はこちら
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失われるシーン:二階バルコニーからの眺め


―互いが互いの意見を相互に見比べられるような場所が見つかりづらい、という問題に対して「I Love Kyoto Kaikan」はその改善のための場所となっているような気がします。


もうひとつ気づくことは、いわゆる「反対運動」を行っている人たちでも立場の相違があるということです。「市民」と一口に言っても、例えば地元の方とそれ以外の方とでは、当然ですが、違いがあります。地元の人も私たちも、同じ市民で仲間であると頭では理解していても、他所からの人をなかなか受け入れ難いものが最初はありました。


―なぜですか?


「外からの人たちには私たちの気持ちは分からない」という言葉をよくお聞きしました。それをどこまで汲み取るのか、汲み取れるのか? その踏ん切りがお話をしていても常に悩むところでした。考えてみればこの問題は地元の方だけの話ではなく京都市民全体に関する問題のはずです。客観的なことを建設的に話していくまでに何度も何度も衝突や話し合いがなされました。目的は一緒なので、個別の意識は違っていても一緒に動いていこう、という体制が具体的になかなかとれない。京都市に何かを言う以前の、そこが一番大変です。


―「反対派も推進派も一枚岩じゃない」と言うことは簡単ですが、実際にその状況に身を置きながら相手と折衝していくのは極めて困難を伴うのでしょうね。


こういう問題があると、私も最初はそうでしたが、分かり合えると思って一緒にやりはじめるのです。でもやってみると分かり合えないことの方が多いことが分かるんです。ものすごく当たり前のことですけど、そのときにショックを受けるんですよ。傷ついたり喧嘩したり、やめていく人もいます。本当はそこから建設的なことがはじまるはずなのですが、それに慣れていない。結局自分と同じか近い意見の人以外は排除してしまうことになります。聞いた話では、アメリカなどであれば人種や民族がそもそも違う人々が同じところにいるので「わかりあえない」ということが前提になります。だから、意見が一致することがまれであることが理解できている、と。たとえばデモで一緒になったらそれだけで、「意見が一致した」ということを喜べる背景がある。でも京都だと何代もその土地で暮らしてきたから空気を読んで分かり合えて当然、という文化でもあり、言い方を変えると、偏見があると思います。

ともあれ、この問題が一年二年続いたので、どこかで妥協点を探さないといけなくなってきて、「全く一緒じゃないからといっていがみあってもいかんな」と、お互いに歩み寄ったところもありました。こういう言い方をすると悲惨な状況のように見えると思いますが(笑)、実態はみなさんとても素敵な方が多いです。ただ、こういう問題点があったことは強調したいところです。


―一方で、「一枚岩じゃない」という認識にとどまっているだけでそこに妥協できる筋書きを考えないと、対立する人たちから「つっつきやすく」なってしまいますよね。


そうなんですよね。そして京都市側がうまいなと思うのはレッテル張りですね。こういう反対運動をするときにどうしても共産党系の方々が中心になりがちなんです。それ自体は問題でもなんでもないことです。もともと市民運動に熱心に取り組んでおられるとても真面目な方々がたくさんいらっしゃいます。ちなみに私は特に支持する政党はありません。ところが、「あの人たちは共産党系の新聞に発言しています、あなたも共産党の運動に乗るんですか?」ということを言われてしまう。でも現実問題として、共産党の新聞しか載せてくれるところがないわけです。それがまだ京都の中だけだと政治状況を市民の方々は知っているのである程度理解してくださるのですが、とりわけ東京の人など他府県の方がこの状況を見たときに、共産党の機関誌に書いてるということはこれは共産党系の運動なんだな、ということで、それだけでもう入ってきてもらえなくなってしまうのです。だからこのブログはそのあたりを意識して党派色がなるべくないように工夫をしているつもりです。



「京都会館解体工事凍結へ市長に申し入れ 共産党市議団」京都民報Web(参照


―なぜ他の新聞では取り上げられないと思われますか?


記者会見も頻繁に行っていて、その時は新聞記者の方も熱心に聞いて下さるのですが、どうもパターンがあるようですね。はっきり言われてしまいましたが、こういう運動の場合は工事着工日のような日にしか書きようがないようです。例えば◯◯委員会の先生が反対意見を出しました、ということを書いても読者に伝わらないし、と。でもそこをうまく書くのが記者の仕事だろう、と思いますけどね。パターンに落とし込んでしまえば記事はどれも一緒になります。同じような記事で何の内容もない、物事の深刻さを何も伝えないような記事になってしまいます。



記者会見風景


また、こうした伝える上での問題の他に、ある運動が好感を持たれそうだ、とか、人がたくさん来そうだ、ということになると、応援に来てくださったり協力してくださった政党や政治団体が結果的に「これは私たちの運動です」という風に色づけをしてしまうことがあります。その色付けを京都市側にうまく利用されるという構図から抜けきれないダメージは大きかったです。

ただ、冷静に素朴に考えてみるとこれもおかしな話です。どの政党の運動でもいいものはいいはずなのです。本来は関係ない話だと思います。でも、貼られたレッテルで人は判断してしまいがちです。今後の反省を込めて振り返ると、「そういう見られ方をする」ということに対する意識がどこかこちら側にも欠如していたのかもしれません。

今この話をしていて思い出したのですが、この点に関して効果的だと思ったのは、先ほども少し触れた12月18日の京都会館を大切にする会のシンポジウムです。槇文彦さんという著名な建築家の方が来られたこともあってか参加者も300名に上りました。京都会館の改築基本設計を行われた香山事務所の方も来られていました。京都市はこの問題に関心持っている人がいかに多いかが分かったと思います。このシンポジウムにはもちろん共産党の方々も他の政党の方々も来てくださったのですが、ここまでの規模になると党派性だけでは埋められないものになるようです。その意味では、「運動を大きいものにしていく」ということはレッテル張りに対して有効なことかもしれません。


―党派色をなくす、とおっしゃいましたが、具体的にはどのような点に気をつけておられますか?


ブログに記事を掲載する際は、反対、賛成、分け隔てなく意見を載せる、ということでしょうか。ただ結果的に共産党の機関誌を取り上げる率が多くなってしまいます。なぜならそれはたくさん取り上げてくださっているからです。それを載せないとなると恣意的になってしまいます。ただ、取り上げるとなると「あの人はこんなところに発言している人だから」という方法を使う人がいつでも必ず出てくるということに気をつけたいですね。


―新聞に載った文章をテキスト入力しているのも河本さんご自身ですか?


そう。画像だけでも読めるのですが、文字検索を可能にしたかったことや、どんどんコピペして情報をいろんな方が拡散してくださったらいいなと思いました。また、リンクを貼りたかったということもあります。実際、それぞれの言葉や人に「参考リンク」をつけています。そこまで見てくれる人はほとんどいませんが。



本文リンク



本文下リンク


このブログをやっているひとつのねらいは、書かれていることが本当に正しいのかを調べるクセをつけたい、ということがあって、本文中の他にも記事の下にできるだけリンクをつけています。どうしてもネットの記事はパッとそれだけ見て判断してしまいがちになります。実際に私もそうで、Twitterなどは特に条件反射的に反応してしまいます。その後にもうちょっと考えるとか調べるとかをしないといけないな、と。表面的なことをそのまま鵜呑みにしてしまうクセがいつの間にかついているような気がしていました。インターネットは便利なツールだと思うので、どんどん利用したいですが、京都会館のことでも「問題だ」と言うときに、それが一体どう問題なのか? を知るきっかけにしてもらうためにどうしたらいいか、と考えてやってみたことのひとつです。





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プロフィール

河本順子
京都市在住の会社員。現代美術講座「高嶺格:アーティストワークショップ」(2006年)への参加がきっかけとなり、公共と個人の関係性について興味を抱くようになる。そのための方法論を市民の立場より考えることについての思考を継続中。台所大学picasomに参加(2010年 - )市民のための「政治」ワークショップ(2011年)グルジア椅子ワークショップ(2012年)